弐:綻び

 もうすっかりと日が暮れている。鳥の声は相変わらず五月蠅い。

 友達にからかいも含まれてお屋敷と呼ばれる原因の大きな門を潜って庭へ入る。リン……と門の隅に取り憑いてある鈴が綺麗な音を立てて鳴った。悪い物が憑いていない証のようなものだ。

 池で鯉が長い尾を揺らして泳いでいるのを横目に見ながら、玄関の扉に手をかける。少々重い気持ちで扉を引いた。

 廊下でまるまっていた灰色の怪物ケモノが薄く目を開き、視線だけこちらへ向けて小さく唸ると、眉を顰めた父がこちらへ大きな足音を響かせて近付いて来る。

 足音を聞きつけた母までもパタパタと走ってこちらへやってくると、父と私の間に体を割り込ませて小さい手を私の肩へそっと乗せた。


「沙羅ちゃん、どこへいってたの? 最近、若い子が危ない目にあってるんだから早く帰ってきてくれないと……」


 私の元に友達が持ち込んできた話は、母の耳にも入っているらしい。それなら、大人たちが動いているのだろうか?

 だったら、父さんと母さんを出し抜いてこれを解決してしまえば兄様は成井家にとって無視出来ない存在になるにちがいない。


「兄様のところへ」


 正直に話すと、ペちんと音がして頬が熱を帯びる。少ししてから、母が私の頬を叩いたのだとわかった。


「沙羅ちゃん、いい加減にしなさい。兄様なんていないのよ」


 兄様の存在を否定するしか出来ないこの人を憐れだと思った。成井家のしきたりで勘当しただけなのに……お腹を痛めて産んだ我が子をいないと言い切るなんて。


「成井家の跡継ぎは沙羅、お前だけだ。いない者のことを言って父さんたちを困らせるのはやめてくれ」


 父も同じだ。自分の親を兄様に救ってもらったのに、家のしきたりを破ったからという理由で、あんなに優秀で美しい人の存在をなかったように扱っている。

 許せないと思った。でも、何度も何度も兄様のことを話しても、この人たちは頑なにそれを認めない。

 おじいちゃんに襲いかかった斑を、身を挺して守ったのは兄様だし、自分の自我を犠牲にして強力な怪物ケモノの力を封じたのも兄様なのに。

 そもそも、怪物ケモノは、成井家の者に刃向かうと魂が灼けるような激痛に襲われるはずなのに……そんなことが出来るのは契約をした誰かから命令された時か、呪いとかで狂わされた時くらいだって聞いたことがある。

 裏切り者や商売敵を見つけるのが先のはずだって私でもわかる。なのに、両親は兄様を追放した。愚かな人達だ。

 私なんかよりもずっとずっと兄様が当主に相応しいのに。

 言い返しても無駄なのはわかっている。だから行動でわからせてやる。ここで怒鳴っても泣いても、また「感情を抑えられない未熟者」といわれて自分の怪物ケモノを持つことを先延ばしにされてしまうだけだもの。

 私は何も言わないで自室へ向かった。背後では父と母が「一体どうすれば」と囁いているのが聞こえる。兄様をちゃんと評価しなさいよと言いたくなるのを抑えて木目が綺麗な階段をしっかり踏みしめて登った。

 兄がおじいちゃんを助けて、うつけものとか掟破りだと罵られて胸を押さえながら出ていった日のことは忘れたりしない。

 それから数日後、兄様の顔をした穢らわしい怪物ケモノは図々しくも私たちの前に姿を現した。


「まじない、のろい、悪霊祓いなんでもござれ。便利屋マダラでございやす。我が主は、卑しい怪物ケモノであるあっしのために、この身の底に魂を潜めておいでです」


 門の外へ現れたそいつは「マダラ」と名乗った。兄様の顔をして、兄様の声で、薄っぺらい戯けたことをいう巫山戯た存在に、私たち一家は全員頭に血が上った。

 それをせせら笑うかのように、うやうやしく頭を下げた斑は言葉を続けた。


「不躾にも主様を襲ったあっしなんかの命を助けていただき、誠に感謝しております」


 ニタニタと笑う姿は、兄様とは似ても似つかなくてそれだけで頭の中が怒りで沸騰しそうになる。

 そんな私の気持ちも知らずに、斑は頭を上げて話を続ける。


「些細なご恩返しと言ってはなんですが、成井家のみなさまが望むなら、憐れな我が主を救っていただくことも出来ます。もし、静様を再び成井家の一員に迎え入れようと言う時は便利屋マダラを、どうぞご利用ください」


 最初に行動したのは父だった。盛り塩を一掴みして、斑の頭を目がけて振りかぶった。母はその場で泣き崩れ、祖父の様子を見守っていたはずの灰色の怪物ケモノがけたたましく吼える。

 兄様を穢すこいつは許せない。そう思った。


「お怒りも御尤も! 霊力、寿命、大切なモノ……対価を捧げれば我が主の解呪は早まります。それだけ、覚えておいてくれりゃあ御の字だ」


 あいつが去り際に残したこの言葉だけ、忘れられずいる。

 対価を得れば兄様の責務は軽減されるって、確かにあいつはそう言っていたのは父も母も聞いていたのに……。

 何をするわけでもなく、兄様をいないものとして扱うしか出来ない二人に、私はいつしか不満と怒りを覚えるようになっていた。

 イライラしながらベッドへ身を投げ出すと、微かに甘い匂いが香る。

 汚い部屋で、兄様の体をいいようにしている斑と、動物のように無節操に情事に耽っていた女たちを思い出して不愉快になる。もう、全部が嫌だ。私だけが、兄様のことを想っている。

 いきなり具合が悪くなったり、悪夢にうなされたりするようになって家から出られなくなった友達を助けられて、兄様も本家に戻せる。最高のチャンスだ。きっと成功させてみせる。

 少しずつ重くなる瞼と体に抵抗しようとしたけれど、でも、今日は初めて……正式ではないけれど怪物ケモノと契約を交わしたのだし、疲れて眠いのも仕方ない。制服のままだけど、夜に目覚めたら着替えればいいか。

 仮眠を……そう、仮眠をするだけだからと自分に言い聞かせて、私は微睡みに身を任せた。

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