便利屋マダラ-兄妹編-

小紫-こむらさきー

壱:結び

「もう……えっちぃ……マダラったら、まだするのぉ?」


 ホウホウという鳥の鳴き声がやけに五月蠅い。都心部の新宿と言っても下落合にまでくれば自然もそこそこある。きっと公園にいる鳥だろう。

 虫が足下をのそのそと歩いている。安アパートはこれだから最悪だ。薄汚れて色褪せた扉の前に立ちながら、聞きたくもないやりとりが聞こえてきて思わず舌打ちをしてしまう。

 来客を知らせるために扉を叩けば声は潜めるだろうと腕を伸ばすが、手の甲で硬い扉を叩いてみると内側から響いていた嬌声の声色が更に熱を帯びた。

 漏れ出してしまう深い溜め息を止められないまま、私は両手を腰に当てる。あいつが出てきたら文句の一つや二つ言ってもいいはずだ。

 だって成井家の次期当主代理がこのような場所にまで足を運んだのだから。本当の当主はこの家に住む斑と名乗る男の取り憑いている体――成井 静兄様なのだけれど。

 事前に連絡をしたはずなのに情事に耽るなんてどういうことなの? 来客があるとわかっているにも拘わらず部屋から聞こえてくる甲高い女の声がイライラに油を注ぐ。


「鍵は開いてるよぉ」


 間延びした声がようやく返ってきた。待たされた腹いせ混じりにやや乱暴にドアノブを掴んで扉を開く。

 キィと不愉快な軋みを立てながら開いた扉の向こうからは、湿った空気が漂ってきて私の鼻の奥にまで甘い香りを運んできた。ブレザーのポケットに入れていたハンカチで鼻と口を押さえながら玄関に靴を脱ぐ。

 踵が潰されたスニーカー、踵がボロボロに傷付いたヒール、靴底が剥がれかけた女物の靴を端に寄せてローファーの踵を揃えた。

 ワンルームのアパートだ。はいってすぐに部屋に似つかわしくない大きな三人掛けの布張りのソファーが見える。その奥にはセミダブルのベッド。

 床には服や物が散らばっていて足の踏み場も無い。私に背中を向けた男の上にはパサついた下品な金髪の女が跨がっている。ぐちゃぐちゃのベッドに上にも女が丸まって眠っているし、シャワー室は誰かが入っているのか、水音がずっと響いている。

 男の首に腕を巻き付けて一心不乱に腰を振っている女をいないものと考えながら、つま先立ちでゴミや服の隙間に見える僅かな床を踏み、汚い部屋を突き進む。

 ソファーの背もたれに垂れたカラスの濡れ羽色をした長い髪。安っぽい蛍光灯の下でも少し青みがかった艶があり、一本一本の毛は絹のように細くて真っ直ぐ伸びている。

 ああ、こんな美しい髪に、どこの馬とも知れない女が親しげに指を絡ませているのが、心の底から腹立たしい。甘い匂いが濃くなる中、無言で足を進めているとようやく女がこちらを見た。

 眉間に通された棒みたいなピアス、その左右にチープな発色のカラコンを嵌めた目が私を捉えて、なんだか不快そうに表情を歪める。甘ったるい声で女が「マダラぁ……あの子だれ?」と聞かれて、アイツがゆっくりと腕を持ち上げた。

 右肩に描かれた黒い蝶のタトゥー。手首から肘にかけては彼岸花の赤が彩っている。

 白くて白磁のような肌に刻まれた消すことの出来ない傷痕。ああ……兄様が戻ったら、これをどう思うのだろう。そう考えると胸が痛む。

 憎々しい気持ちに駆られた私は、女の頬に手を当てている斑の肩に向かって無遠慮に手を伸ばした。


「そんな怒るなってぇ」


 人を食ったような笑顔だなと、頭の芯がぐらりと煮立つような怒りの気持ちが湧いてくる。

 背後の扉が開いた音がして、振り向くと裸のままの女がこちらを不思議そうに見ながら近付いて来た。鼻にかかったような声で「だぁれ?」と言いながらベッドに腰を下ろす。

 ニップルと鎖骨の真ん中、ヘソには鈍く光る銀色のピアスが存在感を主張している。ああもう、うんざりだ。

 本来、こいつの体はこんなやつらが軽々しく触れるものじゃないのに。


いもーと


 そう言って斑が立ち上がる。背中一面には黒い曲線が美しいデザインで太陽と月、そして星をモチーフにしたらしい一際大きな絵が描かれていた。トライバルというデザインだそうで、これだけは兄を思い出すので少し好きだった。兄様の体を好き勝手痛めつけているのは本当に気に入らないのだけど。


わたくしは、お前の妹ではないわ」


「はいはい」


 気怠そうに前髪を掻き上げたマダラがこちらへ顔を向ける。節くれ立った長い指から零れ落ちた髪がサラサラと肌を打つ様子に目を奪われていたことに気が付いて、我に返るとニヤニヤと人を嘲るように笑うマダラの黄みがかった明るい褐色の瞳と目が合う。


「用件があると伝えていたはずです。さっさとこの部外者共を追い出しなさい」


「ってぇことで、悪いけどここで解散かーいさーん


 手をパチパチと叩きながら斑がそういうと、女たちは渋々ながら服を着て、のそのそと部屋の外へ出ていく。文句を言われると思ったけれど思いのほか聞き分けがいい女たちに少しだけ拍子抜けする。

 玄関先で人目も憚らず舌と舌を絡め合わせた口付けを交わしていたことは本当に本当に不愉快だけれど。ハンカチをようやく口元から離して斑を見た。


「まじない、のろい、悪霊祓いなんでもござれ。便利屋マダラでございやす。さあて、ご依頼はいかがなもんで?」


 戯けたような口調でうやうやしく頭を下げる全裸の斑を無視して、私は腕組みをしたままコイツを睨み付ける。

 私が不快そうな様子に気が付いていないのか、頭をあげた斑はニタニタと軽薄な笑顔を浮かべて肩を竦めたので「服を着なさい」と当たり前のことを告げた。

 黒のサルエルパンツと大きめの白いTシャツを掴んでさっと身に付けて、斑はソファーの真ん中に腰を下ろす。隣をポンポンと叩いて座るように促してくるのを無視して、私はコイツを見下ろした。


「呪いの調査と解決の依頼よ。依頼料なら……」


「ああ……金なんていらねぇよ。オレはちゃぁんと言ったはずだぜ?」


 明るい黄褐色の瞳がギラリと光り、金色に見える。ぞくりをして背中が粟立つような寒気に襲われたのを隠しながら、私は斑を睨み付けるのをやめないまま生唾を飲み込む。

 差し出した封筒を手で押し返した斑は、こちらへすらりと長い腕を伸ばす。左腕に掘られた白百合の花は、私を捉える毒草のように思えた。


「対価ってえのはな、大切なモノ、寿命、霊力……成井家からの依頼はそういうモンをもらえってのが御主人様との契約なんだよなぁ」


 口を開くと、鋭く伸びた牙が覗く。獣の分際で……と思うけれど、今は私がこいつに依頼をする立場だ。

 咳払いをして、封筒を鞄にしまってから斑に向き直る。


「女性の友人ばかり数人、体調を崩しているのよ。頼まれて霊の仕業なら祓おうとしたのだけれど、どうも呪いのようだからお前に頼みに来るしかなかったの。金銭以外の対価も、もちろん払います」


「へぇ……呪い、ねえ。そういや、嬢ちゃんはまだ怪物ケモノは従えないのかい?」


 組んだ指の上に顎を載せながら、斑はニタニタと笑う斑は西洋のお伽噺に出てくる化けチシャ猫のようにも見える。ああ、こいつはわかっていて人の心を逆なでしてくるようなことを言うのだ。動揺を表に出して喜ばせてなんてやるもんか。


「それ以外の理由でわたくしがお前に頼る理由はないでしょう。それに……お前に対価を祓い霊力を食わせれば兄様は早く目覚めると聞きました。なんとしてでもお前には協力してもらいます」


 立ち上がった斑は、馴れ馴れしく肩を組んでくる。それを払いのける前にスッと顔を耳元に寄せられた。ぼそぼそと囁くような小さな掠れた声は兄様の声色のままで話方がちがうのに脳の奥が引っかかれたようにざわざわとする。


沙羅さら、あんたの覚悟を見せてくれりゃあいい」


 悪魔の誘惑というのもこれに近いのだろうと思う。親しい者や美しい者の外側を借りた中身は醜悪な存在が、心を揺さぶってくる。

 整った形の薄い唇は緩い孤を描き、切れ長の目をスッと細める様子は兄様に似ていて、けれど軽薄な言葉も厭らしい笑い方も何もかも兄様とは違うから、腸が煮えくり返りそうになる。

 歯ぎしりをしてしまっていることに気付いて慌てて平静を取り繕うとするも、この怪物ケモノには見透かされていたのか、相変わらずヘラヘラとした軽薄な表情を浮かべて私から顔を離した。


「そうさな……一番大切なモノを対価に出してくれ」


 私の一番大切なモノ……なんだろう? 

 私の一番大切なモノ……なんだろう? 家? 友人? 兄様からもらったぬいぐるみ?

 頭の中に色々なモノが浮かんでは消えていく。簡単に頷くわけにはいかない。だって相手は良心的な人間なんかではない。あくまで怪物ケモノ……悪魔や妖怪に近い存在だ。

 呼吸が浅くなる。取り乱してはいけない。付けいる隙を与えてはいけない。怪物ケモノたちはいつでも人間の弱みを探して主従をひっくり返そうと狙ってくるのだから。

 肺まで空気を入れて、ゆっくりと吐き出す。落ち着かなければならない。いつでも冷静に、いつでも適切な判断を下すべきなのだ。兄様みたいに。


「あんたの大切なお兄ちゃんを取り戻すための覚悟ってやつがオレぁ見たいんだよ」


 挑発に乗ってはいけない。冷静に判断しなければならない。

 手を握りしめる。掌に爪を立てて挑発に乗らないように自分を戒める。兄様は大切な人だ。こいつに兄様を思う私の何がわかるっていうの。

 どんなときでも冷静沈着で正しい判断をしていた兄様。私は兄様の留守を預かっているから、兄様みたいに振る舞わなければならない。


「嫌ならいいんだよ。オレも成井の怪物ケモノには変わりない。主以外からの命を断ることは出来てもぉ、契約を無理強いするなんてできねぇからなぁ」


 ヘラヘラとしたこんな男の口車に乗ってはいけない。それはわかっている。どうすれば私が優位な立場で物事を進められるか、それを考えねばならない。

 今すぐに怒鳴り散らしながら、こいつの胸ぐらを掴んでやりたいと衝動を抑えながら、斑を睨み付ける。


「兄ちゃんに会いたいくらいで、一番いっちばん大切なモノをオレに捧げられるわけないか」


 ダメだ。方針を変える。こいつに私の覚悟を見せるべきだ。

 私の覚悟。私の兄様を思う気持ちはチンケなものなんかじゃない。自分よりも大切な兄様には何を捧げたって構わない。

 私のメンツも、正しさも、兄様の名誉を回復するためなら、もう一度兄様に褒めて貰うためには些末な事柄だわ。


「黙りなさい」


 背中を向けた斑がゆっくりと振り返る。金色の瞳がゆらりと揺れて、細くなった瞳孔が私を中心に捉えた。


わたくしの覚悟は本物です。いいでしょう。兄様を呼び出した後に、わたくしの一番大切なモノを対価として支払います」


「いいよぉ」


 へらりと、力なく斑が笑う。それは獰猛な猛獣が牙を見せたときのようで嫌な寒気が私の背中を撫でる。

 のそのそと背中をまるめたままの斑が、私に近付いて来て長い指で私の手首を掴んだ。

 持ち上げられて口元に当てられた親指がチクリと痛む。

 べたりと血の出た親指を自分の頬に擦りつけた斑が妖艶に微笑んだ。血化粧に彩られる兄の顔をしたこいつは悔しいけれど暴力的なまでに美しい。


「あんたがオレに戻れと言えば、一度だけ我が主はこの体に戻る。まあ、長くても一日しか保たねえがな」


 手を離されて、重力が私の腕を捕まえる。慌てて我に返ってから私は胸を反らして次期当主代理として相応し振る舞いを考えた。


「それで十分です。魔を祓い、功績を積めば力も強まりその責も軽くなるのでしょう?」


 指をそっと確かめると、確かに先ほどチクリとして僅かに流血していたはずの親指は傷一つついていないように見えた。

 首を傾げたい気持ちになりながら、私は斑をしっかりと見つめる。


「そぉだけどさあ」


「成井家次期当主代理に二言はありません。それと」


 先ほどは兄様に似ていたから一瞬だけ見とれてしまったけれど、こいつの本質は穢らわしくて下等な怪物ケモノだ。臆してはいけない。

 背筋を伸ばして、正しい振る舞いをするのだ。もう弱みにつけ込まれるようなことがあってはならないのだから。


「沙羅と呼び捨てにすることを許した覚えはありません。わたくしのことは、お嬢様と敬って呼ぶように」


「あいあい。わかったよ、お嬢様。契約成立だ」


 斑の頬についた赤い血がみるみるうちに消えていく。まるで体の中に吸い込まれて行くみたいに見えた。

 両親は過保護だ。私が未熟なのもあるけれど、こういった仕事を任せてくれることも、怪異との契約も実際に見せてくれたことはまだない。

 怪異の起こす不思議な現象になれていないと思われてはいけないと自分を律しながら、私はなんでもないことが終わったかのように見せるためにさっさと斑に背を向けた。

 兄様の名前を呼べば、最長一日は兄様がその体を、この下等で怠惰な怪物ケモノから取り戻せる。依頼を解決して、本家へ赴くときに兄様を呼び出して、兄様の功績ということにすれば、きっと父も母も兄様が本家に戻るのを許してくれるはず。


「んじゃあ、調査はして置くから気をつけて帰れよぉ」


 背中に調子の良い斑の言葉を受け止めながら、私は乱暴に玄関の扉を閉めた。

 ホウホウという鳥の鳴き声が降り注ぐ中、私は猥雑とした街を離れて帰路に就く。

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