肆:叫び

 母に「具合は良くなったから学校へ行きます」とだけ告げて家を出る。

 すぐに電話をして学校には休むと伝え、バスに乗る。セシーリアさんに昨日のことを聞かれたらどうしようかと思っていたけれど、今日は彼女の姿が見えなくてちょっとホッとした。

 待ち合わせをしたのは新大久保駅前。スマホから斑へ到着時間を連絡して目的地へ向かう間、窓の外を見ながらぼうっとしていると、思っていたよりも早く目的地へ着いた。

 姿が見えないけれど、ホウホウとどこか遠くで鳥の鳴き声がしているのを聞きながらバスを降りると、ヒラヒラと手を振っている男が視界に入る。


「今日はマシな格好をしているのね」


 兄様が好きそうな黒いYシャツにスラックスという格好の斑を見て嫌みを込めて褒めてみると「怖い人に墨を覚えられても困るしぃ?」とヘラヘラと笑いながら応える。

 こいつは成井家の者わたくしに決して嘘は言えない。しかし、信用してはいけない。


「あなたにまともな回答を求めた私がバカでした」


 呆れた私のことなんて意に介さずに、斑は昨日女が教えてくれたという場所へ向かってすたすたと歩き始めた。

 雑居ビルの間をしばらく歩いて辿り着いたのはラブホテル……の横にある小さなボロアパートだった。クリニックと言うから、もう少し違う建物を予想していたのだけれど。

 お兄様の体に入っていたとしても怪物ケモノ成井家の者わたくしに嘘は吐けない。だから「本当にここなの?」なんて聞きたくなる気持ちを抑えて、黙ったまま斑の後を付いていく。

 アパートの前にある駐車場には黒塗りの車が数台停まっていた。スモークガラスに覆われているけれど、車内から視線を感じて嫌な気持ちになる。


「お嬢様ぁ、知らんぷり知らんぷり。こわーいおじさんに用事はねえからな」


 肩を抱きよせられて驚いて体を強ばらせると、耳元まで顔を近付けてきた斑が囁くようにそう言った。耳がくすぐったくて妙な声が出てしまうのが腹立たしい。

 車の横を斑に隠されるようにして通り過ぎて、右端の部屋まで辿り着く。古ぼけた扉の前でチャイムを鳴らそうと腕を伸ばすと、ギィと歪んだ音を立てて扉が開いた。


「あの……昨日紹介されて……」


「さっさと入りな」


「あ……はい」


 目がくぼんだように暗い老婆に案内されて、私たちは部屋の中へ入る。

 玄関を開けてすぐキッチンがあり、右にある和室にいるように告げられて引き戸を開けられた。どうやらこのクリニックとやらは座布団が乱雑に置かれた部屋と、奥にある洋室しかないらしい。

 無愛想な老婆が私たちに背中を向けて、玄関へ向かった。グイッと行きよい良く扉が開かれて、入ってきた人間に突き飛ばされて老婆が無表情のまま尻餅をついた。

 助け起こそうと思ったけれど、痩せぎすの血走った女が叫びながら飛び込んできたので、私は立ち竦む。


「出てこいあんたのところで堕ろしてから耳鳴りが止まないんだよホーホーホーホーホーホーずぅぅっとガキがうろついてなあヤクをキメてもやっててもいつでもみやがってなあお前がになにか頭に埋め込んだんだろ寝ている間になあこたえろよああ! なにみてんだよなあホーホーホーホーうるせえんだよ出てこいよわかってるんだよぜんぶぜんぶあの外人の女が胡散臭いとおもってたんだぜんぶぜんぶ」


 息継ぎもしないまま何かを捲し立てて一心不乱に扉を叩いている女は、あっと言う間に駆けつけてきたラフな格好をした白人の大男に羽交い締めにされて出て行った。

 扉が閉まる前にホウホウと鳥がけたたましくないた気がして背中がアブラっぽい汗で濡れる。動機がしているのを悟られないように静かに深呼吸をしていると、さっきの怒鳴り込んできた女なんていなかったみたいに老婆がこちらへやってきて、洋室へ入るように声をかけてきた。

 斑に腕を引かれて、ゆっくり立ち上がりながらさっき叩かれたせいで少しヘコんで血がついている扉を通って洋室へ入る。


 扉の先には一人の女医がいた。一応白衣を着ているし、使い捨てらしいゴム手袋をしているのでそれなりにちゃんとした処置はしているのかもしれない。

 診察台の近くに拭き残したらしい乾いた血痕が見えて、表情を顰めると、斑が少々乱暴に女医の肩に両手を置いて顔を見つめた。


「ねーえ、お姉さん、オレの眼、ちょぉっとだけ見てくんない?」


 うっとうしそうに斑の顔を見た女医が、次の瞬間とろんと蕩けたような表情になって脱力する。


「ちょっと眠ってもらっただけさ。さあ、お嬢様許可をおくれ」


 うっとうしそうに斑の顔を見た女医が、次の瞬間とろんと蕩けたような表情になって脱力した。


「斑? 私の許可なくニンゲンに手を出すことは……」


 声をひそめながら斑を叱咤するけれど、私としても正直助かったのは事実だ。


「だーいじょうぶぅ! ちょっとうとうとしてもらっただけさ。さあ、お嬢様許可をおくれ」


 基本的に怪物ケモノは、許可なく生きた人間に危害を加えれば焼かれるような痛みを感じる造りになっている。

 記憶の偽装をしたり、当人の意思を無視して体を操ること、故意に傷つけること、もちろん殺すことも禁じられている。こいつがおじいちゃんを食い殺そうとしたことがあるのは確かだけれど、兄様が身を挺して斑と契約状態にあるからか、今もその契約は有効なようで一安心する。


「許可します。その女の記憶を偽装しなさい」


 兄様が受け継ぐことが決まっていた歴代の中でも最強の力を持つ怪物ケモノと名高かっただけのことはあると少しだけ斑のことを見直したけれど、そんな弱みを見せるわけにはいかない。

 声をひそめながら命令を下すと、斑がにたりと唇の両端を持ち上げた。


「いいよぉ」


 動かなくなった女医を尻目に、斑は部屋の奥にある机の上へ駆け寄った。いくつかの書類をスマホで撮影して、こちらへ戻ってくる。

 何を見てきたのかと尋ねようとして、私は黒い袋に気が付いてしまった。私の視線を追いかけるようにして顔を動かした斑が、それに近寄っていく。袋を開いた斑の目に邪悪な光が宿り、血と生ゴミの混ざり合ったような匂いが鼻につく。

 吐きそうになるのを耐えて、首を横に振ると袋を結び直した斑が大人しくこちらへ戻ってきた。


「目的のもんは手に入ったよ、お嬢様」


 指をパチンと鳴らすと脱力していた女医が背筋を伸ばして、何事もなかったように動き出す。

 一瞬私たちを見て怪訝な表情を浮かべたけれどすぐに「帰っていいよ」と無気力に答えて、背を向けた。

 心臓が痛いくらい激しくなっている。胸を押さえながら何食わぬ顔をして外へ出ると、斑が私の手首をグイッと掴んだ。そのまま細い路地に引き込まれて、私たちは向き合った顔を合わせる。

 動揺を見せてはいけない。深呼吸をして前を向くと、通りに顔だけ出して辺りを確認した斑が私を手招きした。そうっと顔を出してみると、さっきのアパートの駐車場でなにやら人が動いているのが見える。


「アレは何を」


 そう訪ねようとすると、しぃと唇に人差し指を当てて斑が車を指差した。さっき女を羽交い締めにして引きずり出していた男が、部屋から持ち出した黒いビニール袋を幾つか車に詰め込んでいる。一連の作業が終わると、車は駐車場から出てこちらへ走って来る。

 慌てて路地裏に身を潜めると、車に乗った男は私たちを無視してそのまま走り去っていく。

 胸をなで下ろしていると、斑に再び手を引かれた。


「さあて、これからが本番だ」


 斑はそういってタクシーを拾って住所を告げた。土地勘がないのでわからないけれど、とにかく遠いっぽいと言うことはわかる。

 少し先にさっきの黒い車があるのがわかった。バレないかどきどきする。でも、こんなことで高揚しているのは次期当主代理として相応しくない。兄様みたいに私はふるわまなければならないのだからと自分に言い聞かせながら、タクシーに乗り込んだ。

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