イタコと犬 四

「いらっしゃい」

 相変わらず小さいけれど愛想の良さそうな声でカカが言う。

「トイに用があるんだ。最終巻を頼むよ」

 シタがそう言うと、カカは何も聞かずに本を取りに階段を上っていった。


 最終巻のトイは何でも知っている。

 彗星石の事も、本の中で起きた事も、人生も。なにせ終わりゆく世界を八十一歳まで旅ながら生きたのだ。

 差し出された最終巻を読んでいると、いつもの注意事項を聞き終わらないうちにズルリと引きずられるように眠りに落ちる。


「おはよう、シタ」

 重く静かな声に目を開けると、自分がやけに冷たい岩の上に座っている事にシタは気付く。ここは雪に沈む世界。

 巨大な黒鳥のガラガラとした鳴き声以外には足音さえ聞こえない。

 同じように冷たい岩に座るトイは、緑のローブに茶色い服を着ている。この最終巻のトイの、いつもの服装だ。


「おはよう。聞きたい事があって来たんだ」

 トイは隣に座り、じっと一軒の家を眺めて目を離さないまま聞く。

「なんだい?」

「体が別の人間に乗っ取られた場合、どうすれば取り返せる?」

「そんなの簡単だよ。彗星石さえあればね」


 はぁ……と、シタは溜め息を吐いた。望みがないと言われたも同然だ。この時代にそんな物はないのだから。本の世界で繁殖を続ける彗星石は誰の失くし物でもないので持ち帰る事が出来ないし、とシタはそこまで考えて首を捻る。


「この前、えっと……ほら、五十歳の時に獣兵国で話した彗星石と同化したっていう遺物の集霊器。あれならどうだ?」

「遺物か。無理だろうな」

「なぜだ? 見た目はしっかり彗星石だぞ。黒くて光の渦の模様があって」


 シタが言うと、トイは首を横に振る。

「役目があってその形になっているんだ。お前はそのようにあれ、と契約がなされているんだよ。だから霊を呼ぶ。もうその遺物はそれ以外の何物でもないさ」

 今度こそシタはがっくりと肩を落とす。


「そうがっかりする事もない」

 トイが言うのでシタが顔を上げると、彼は口元をニヤリと持ち上げている。


「なにか策があるのか?」

「本当にあるかどうかは分からないけれどね。もしかするとあるかもしれない」

「それはなんだ? 教えてくれ!」

「塔を壊してごらん」

「塔を、壊すだって?」


 シタは意味が分からなくて聞き返す。

「そうさ。この塔はね、彗星石と僕の契約によって建っているんだよ。だから壊したって一晩もあればすべて元通りさ。壁も床も、本もね」

「だからと言って、壊してどうしろと言うのだ?」


「契約したんだ。そして今も契約は続いていて僕はここにいる。という事は、あるはずだろう? この塔の核となる彗星石が」

 あ、とシタは声を漏らす。

「しかし、壊してしまってトイは大丈夫なのか?」


 シタは曖昧に聞いた。彼がただの記録の見せる幻であるのか、魂であるのか分からないからだ。けれどただの記録であればいいと、シタは願う。

 もしも前文明からずっとここに閉じ込められている魂だとすると、そんな悲しみは重苦しすぎるから。


 雪に潰れそうな家の前にじっとしていた黒鳥が、すっと眠りに落ちた。

「何も問題ないよ。もし核が見つかったら、この最終巻の僕に教えてくれないか?」

 トイはなだらかに倒れながらそう言った。


「トイ! おい、大丈夫か? もう死んでしまうのか?」

 トイの体を雪の中から抱き起こし、シタは聞く。


「そうだよ。あの家に暮らすお婆さんが亡くなって、お婆さんが亡くなった旦那の魂が入っていると信じて疑わなかった怪鳥もたった今、逝った。僕がこの世の最期の命だからね」

 自分の懐に帰り用の土鈴があるからね、とトイは微笑んで目を閉じる。


「ありがとう。必ずお礼をするから」

「そうか。それなら、どうか……死なせておくれ」

 トイはひと筋の涙を零すと、そのまま硬く眠る。

 彼の体を岩の上に横たえてからも、シタはそこから動けずにぼぅっと座り続けた。

 この巻に入るといつもこうだ、とシタは思う。


 終わりの雰囲気に自分の心まで引きずられるのだ。彼は何度も眠りに落ち、この世界は何度も終わる。

 ハラハラと降り止まない雪は神話で聞いたように、確かに少し塩の味がした。


 すると目の前の景色の中に、急に黒いモヤが立ち上った。モヤは降る雪の白色に少し薄らいで、段々と影のように見えだした。その中に何かがいる。

 目を凝らしたシタは、すぐにポ助だと分かった。


 そんなまさか、とシタはポ助を呼びながら駆け出す。いくら首輪をつけていても字は読めない。だからポ助はここには来られないのだ。

「ポ助!」

 けれど影の中のポ助がパタパタと走り出すのと同時に、モヤは跡形もなく消えてしまった。

 一体なんだったのだろうと思いながら、シタは彼の横で土鈴を鳴らす。

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