八月九日

イタコと犬 一

 古くは野生動物たちが傷を癒しに来たとされる人気の温泉地。そこよりさらに山を深く高く上った先にある寺院からの眺めは、現代を忘れられるような心地の良いものだった。


 シタは崖の淵にせり出すように建つ寺院の端まで行き、深山の波を見下ろした。

「まさに秘境」

 シタは自分に呆れながら、おやつ代わりのキュウリを齧る。

 なぜこんな秘境でキュウリを齧っているのか?

 それは言わずもがな、シタがまた間違えたからだ。


 例の彗星石と同化した木の枝のような物が集霊器として使えるらしいと気付いたのは偶然だった。


 自宅アパートの狭い風呂に浸かりながら、実に見立てた鈴を指ではじいた時だ。ガタガタと家鳴りがし、変えたばかりの電気がチカチカと明滅し始めた。なんだなんだと思っていると、今度は風呂の湯が時化た海面のように波打つのだ。


 慌てて心霊カメラを持って来て覗くと「こんにちは、呼びましたか?」と言わんばかりに霊たちが風呂場にすし詰めになっている。

 特に用もないので文句を言う彼らに素っ裸でお祈りをしてお帰り頂いたのだが、これは使えると思いイタコのバイトに応募したのだった。


 なにせ探偵シタの仕事は十件やってようやく一、二件の成功が得られる程度なのだ。報酬だけでは腹いっぱいに食えなくてバイトだってしたくなるというもの。

 しかしバイト先にイタコを選んだ事と、報酬がいいからとこの秘境寺院を選んだ事が間違いだった。


 そして初日だからとスーツを着て、夏真っ盛りに溶けず腐らないおやつとしてキュウリを手に、途中ですれ違った野良犬に馬鹿にされながら山を登る。


 心霊カメラを首からかけたスーツの男が、ダラダラと流れる汗を首からかけたゆるキャラ猫さん柄の手拭いで押さえ、水を忘れて喉の渇きを癒すためにキュウリを齧りながら寺院の階段を上って来た時、噴き出した掃除のおばちゃんの顔をシタは忘れない。


「あ。来た、来た」

 心霊カメラを覗きながら、シタは呟く。

 フヨフヨと集まってくる霊たちを交通整理のように、黒枝の集霊器で本殿へ誘導する。


 チリンチリンと耳馴染みの良い音の合間に、シタは背後から近づく足音を聞いた。

 バッと振り向くと、そこにはショートカットの女性が立っていた。歳は三十前後だろうと思われ、顔はこの暑さに似合わず青白い。それが彼女の思いつめた表情をさらに悲壮感たっぷりに見せている。


「あの……」

 女性は思案しているように、口を開けたり閉じたり落ち着きがない。

「どうかしましたか」

 シタの問いに、彼女は思い切ったように口を開く。


「探偵さんだそうで。イタコのお婆さんに聞きました」

「えぇ、そうですが。何かご依頼が?」

 彼女が頷くのを見て、シタは陽に色褪せたコカ・コーラのベンチに座り話を聞く。


「友人の魂が行方不明なんです。体が生きていても魂だけになっているのなら、イタコで呼べると思って来たのですが、ダメで……」

「なるほど。ではご友人の体は今どこに?」

「精神科の病院に。仕事をしています」

「仕事を? それは可笑しな事ですね」

「そうなんです。誰も信じてくれないんですけど、あの体の中にいるのは別人なんです!」


 彼女はひしとシタの袖口に縋りついて訴える。

 話によると友人の男性は三十四歳の精神科医で、薬をあまり出さず患者に寄り添う喋り口で人気があったらしい。


 それがここひと月は様子がおかしいと言う。

 薬をしっかりと出し、あまり患者と話をしなくなり「辛いならその想いを消してしまいましょう」などと言って感情削除治療を提案して患者を怒らしているらしいのだ。

 削除治療については有り難いという完治者がいる反面、よく思わない人も多い。


「それは確かにえらい変わりようですが、単に性格が変わっただけとはいう事はありませんか?」

「ありません! 彼はそんな人ではないんです。被災地に行ってボランティアで診療をしたりする素敵な人だったんです!」

 大声を上げると、彼女はボロボロと泣き出してしまった。


「大丈夫ですよ。あなたの言葉を信じます。調査に向かいますからもう少し詳しく、お名前や住所などを聞かせて下さい。この依頼、私が引き受けます」

 言いながらシタは、これは困ったぞと頭を抱えたい気持ちだった。


 体を乗っ取られたにせよ、交換したにせよ、入ってしまった魂を無理やり引き剥がすような事はできないのだ。

 さらに問題は、体の本人確認は出来ても魂の本人確認は自己申告でしかないという事だろう。体から剥がしてしまえば霊の顔も見えようというものだが、まず剥がせないのだから仕方がない。


 趣味を聞き、思い出話をし、少しづつ追い詰めて行く事は出来るだろうがそれでも言い訳のしようはいくらでもあるのだ。

 そんな思いを態度には出さず彼女、ユリの話を聞き終えたシタは寺院に住み着いている猫の群れに餌や飲み水をやり始めた。

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