兎と婚約指輪 七
ウナが自殺未遂をしたのは、彼女が記憶を失ってすぐの事だった。
崖の上から谷底に飛び降り、彼女は死んだはずだった。
それが、救急隊が行ってみると彼女は足を怪我して動けなくなっていただけで、命には何らの別状もなかったのだ。
「どんな傷も治ってしまうんだ」
「彼女は石の娘だからね」
「石の娘?」
シタが食いつくと、トイはあからさまに話を逸らして「これは酷いね」と言った。本当にあからさまだったけれど、集落の惨状があまりに酷いのでシタは頷く。
レンガ造りの家々は悉く崩れ、集落の人々は家財を持って逃げ出していく。集落の中で立ち残っているのは人の背丈より高い彗星石の群ればかりだ。
どこから調達したのか、火薬の臭いが充満している。
「こんな事をさせていいのか?」
シタは思わず聞いた。
「いいんだよ。ここは僕の記録の中だからね。どうせ何も壊せやしないさ」
「それにしたって……」
呆気にとられたシタがキョロキョロとすると、路地に並ぶ壺なんかを叩き割って歩く女性が見えた。
仕方なくシタは声を掛ける。
「こんにちは。失せ物探し屋の手伝いの者ですけれどね、見つかりましたか?」
すると彼女はグルンと振り向き、ギョロッとした目でシタを見た。
「いいえ。見つからないの。これは彼から私への愛の試練なのよ。だから有り難いけれどお手伝いはいらないわ」
彼女は言う。その目はどこか虚ろで、焦点の合わない印象を受けた。
「あぁ、そうですか。彼とはとても仲がよろしいんですね?」
「もちろんよ! 海でケンカなんてしたけれど、その後も私たちは愛し合っているの。彼は今朝だってチカチカと私に愛を囁いてくれたのだもの。それにしたって間抜けなのは私よ! 彼が私の婚約指輪を海に捨ててしまった事に昨日になって気付くなんて! 彼はきっとすぐに気付いて見つけてほしかったのよ。きっと私に失望したに違いないわ。あぁ、早く見つけなければ」
彼女は早口に言うと、またガシャンガシャンと壺を割にかかった。
「トイ。私は急いで戻らなければいけない用事ができた」
「そう。また遊びにおいで」
トイはそう微笑んで、懐から素焼きの二なりの鈴をシタに手渡す。
シタがそれを鳴らすと、景色は途端にグニャリと捻じれた。土煙も、火薬の臭いも、壺の割れる音さえ徐々に薄れていく。
目を開けて壁一面の本を確認したシタは、ガバッと飛び起きる。
「どうだった?」
満腹で満足げな顔のポ助が聞いた。
「問題ない。あと見つけなければならないのは彼の本体だけだ」
言いながらシタは、ガサゴソとまたヌイの荷物を漁り始める。その中に手帳を見つけたシタは、すっかり常連のようになった警察署に電話をする。
「あぁ、シタだ。警察に相談したが真面目に聞いてもらえなかったという事件を調査していたんだが、どうも本当に事件だったらしい。とにかく今から伝える住所に行ってみてくれ。そこの何か、チカチカするものに部屋の婚約者の男の魂が張り付けられているはずだから」
言うだけ言ってさっさと電話を切ったシタは、今度はナカミ海岸でデートの記述を七月十七日に見つけ、サッと立ち上がる。
「あった。十日も前だ! 急ごう、ポ助」
後ろで店主が「シタさん!」と珍しく大きな泣きそうな声を上げているのは、申し訳ないが聞かなかった事にして。
ナカミ海岸というのは電車に乗れば一時間もしないで着ける隣県の海岸だ。
シタはポ助を助手席に乗せ、車でそこへ急ぐ。
「結局どういう事だったんだ?」
「どうという事もない。母親の言った通り、婚約者の女の仕業だったんだよ」
あの母親の過干渉な様子から思わず、母親の気にし過ぎと思い込んで捜査を始めてしまったと、シタは眉間に皺を寄せて言う。
「へぇ。そんで婚約者の女は、ナカミ海岸に男を監禁してるんだな?」
「いいや。おそらく男は入院している。彼女は今朝も彼が愛を囁いたと言っていたんだ。という事は、彼の魂は彼女の部屋にいる。そして体だけ置き去りにすればすぐに事件になっていただろうから、おそらく病院に何だかんだと言って入院させているだろうという事さ」
しかしシタは焦っていた。
もし女が狂気的な人間で、体なんてどうでもいいと考えていたのなら今頃どうなっているか。この真夏のうだるような陽射しの中、人目につかない場所で十日も魂が抜け眠りこけているとしたら。そう思うとハンドルを握る手に力が入る。
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