第10話 師匠と弟子(2)
夕飯を終えて風呂から上がるとベランダの掃き出し窓が開いていてカーテンが揺れていた。開いた窓から入ってくる温い風が風呂上がりの肌に心地良い。ベランダの外は街灯も無く真っ暗闇で遠くの田んぼの蛙が鳴いている。
「先生?」
ベランダを覗くと彼は手摺に肘をついて空を見上げていた。彼を真似て私も空を見上げてみる。
「満月だ」
私に気が付いた彼はゆっくり顔を下げてこちらを見ると、何かを訴えるような眼差しで人差し指と中指を立て、唇に付けたり、離したりするジェスチャーをしてみせた。
「投げキッス?」
彼の膝が力無くガクリと崩れた。
「違う違う。……ニコチンが欲しいなぁ、って」
「あぁ~」
その謎のジェスチャーは『煙草が吸いたい』って意味だったのか。口で言えばいいのに。
「コンビニ一緒に行きます?」
タオルで頭を拭きながら何の気なしに訊ねる。
「タバコ買いに行きましょう」
「金がない」
「私が出しますよ」
築さんは眉間に皺を寄せ、両手で顔を覆うと唸った。
「……これ以上、俺を甘やかすのはやめてくれ。」
「先生?」
気を利かせたつもりだったが、どうやら私の回答は彼を満足させるものでは無かったらしい。恨めしそうな顔でこちらを見た。
「そこは普通軽蔑するところだろ。冷たい目で俺を見下して『金のない奴は煙草を吸う資格はない』って罵るところだろ?」
「そ、そうなんですか?」
「そうだ。お前は優しすぎる。そんなことじゃあダメ人間になるぞ!俺が!」
「そう、ですか…」
別に彼が喜んでくれるなら何でもやってあげたいが、またそれを言えば怒られてしまうだろう。弟子って難しい。
「じゃあ…」と少し考えてから私は彼を見た。
「……いい機会ですから禁煙しましょう。私も協力します。」
「き、禁煙……?」
彼の求める代替案を提案するものの、先程の威勢は何処へやら今度は眉をハの字にしてこちらを見つめた。
「そ、そんな顔しても、駄目です……え?そんなに?そこまで……吸いたいなら……自分で働いたお金で買ってくださ……い」
頑張って強気な言葉を言ってみたものの、いきなり鬼にはなれなかった。結局、彼を甘やかすセリフを言ってしまう。
「……ぶはぁッ」
そんな私の困った顔を見て彼は堪らず吹き出す。オロオロしているのが余程可笑しかったのだろうか。彼は声を上げて笑い、私の頭にかけていたタオルでガシガシと乱暴に髪を拭かれた。
「あずまやぁ~駄目だろ~……くく……可愛い奴だなぁ、お前」
「う…………笑い過ぎです!」
完全に揶揄われておもちゃにされてる。
しかも、そのあとしばらく彼は思い出し笑いを繰り返していた。私には何がそんなに面白いのか分からなかったが、彼の笑った顔をここに来てから初めて見れた。
笑うと目尻と一緒に眉も少し下がるのは昔と変わらない。
……早く大人になりたい。
彼の笑顔を見てそう思う。彼と対等に話が出来るような、彼に頼りにしてもらえるような大人にならなくては。
思い耽っていると、彼はふと私の顔を覗き込んできた。
「そういえば、聞きたいことがある」
「な、何ですか?」
「お前の父親は何をやってる人なんだ?」
「私の父ですか?」
突然こちらに話を振られた。
しかも、どうして私の父なのだろうか。
「そう。ここに来てからずっと考えてるんだが、どーしてもお前のことを思い出せなくてな?なんかヒントくれ。お前の親父さんの職業聞けば思い出せるかも。」
てっきり、先程の絶縁の話の続きかと思ったが違うらしい。彼なりに私のことを思い出そうとしてくれていたのだろうか。
別に隠しているつもりでもないけど、彼はどうしても自力で思い出したいのかもしれない。
「そうなんですか?……えと、公務員です。」
「公務員?ってことは同業者の娘って線は無しか。……となると……過去に施主で公務員だった人っていうと……?」
しかし、どうやら彼は私を昔仕事で担当したお客さんの娘だと推測しているらしい。勘違いが深みに嵌る前に慌てて首を振り訂正する。
「あ、違います。私の父は全国を転勤していて、それに私達家族も付いて行ってたのでお客さんじゃないです。父は先生のことすら知らないです。」
「全国転勤?ってことは県外にも住んでたってことか?それで?公務員?東屋の親父さんは具体的になにやってる人なんだ?」
困って首を傾げた。私の父はあまり仕事の話をする人では無かったので、子供の頃に母から教えてもらった記憶を頼りに話をするしかなかった。
「私あんまり父の仕事内容についてまで詳しく知らないんですけど……なんだっけ?かい、海上保安庁?海上保安官で船を操縦したり、違法船を取締りしてるみたいです。」
本当にこれくらいしか分からなかった。こんなことなら詳しく聞いておくべきだったな。それを聞いた彼の眉間の皺は更に深くなった。
「なんでまた、よりによってそんなとこの娘が建築士を」
「な、何か思い出せましたか?」
淡い期待をしたが彼は首を横に振った。
「俺の過去担当した物件で海上保安官やってる客はいなかったな……ますます謎が深まっただけだった」
「そう、ですか」
結局、私の事は思い出せなかったらしい。彼はすまないと謝ってきたが、特に気にはしていなかった。
「それはそうと……俺と暮らしてること絶対に家族には言うなよ?」
「ダメなんですか?」
「当たり前だろ、お前の親父に殺される」
「では今度こそ私のこと忘れないで下さいね?」
先程の仕返しと悪戯っぽく言うと、彼は困ったような笑みを浮かべた。
「忘れられないよ」
その表情にも覚えがあった。
私のことを何も思い出せない彼とは対照的に、私は次々と昔の彼を思い出して鮮明になっていく。
こうして彼と一緒に居られるのであれば、このまま昔のことは思い出されなくてもいい。少しまだ湿っぽい髪を指に巻いて緩んでしまう口元を誤魔化した。
その日は、引越し先は決まらず後日不動産屋に行こうと約束して終わったのだった。
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