その人といることは、一人でいる時のように自由で
第8話 保存期間の過ぎた図面
ーーそうそう、あの時は正常な判断が出来なくなるくらいに先生に夢中だった。
私はキッチンの食器を片付けながら、先生と再開した頃を思い出して苦笑する。
盲目的な恋というか、若気の至りというか、今思えば度が過ぎる愛情表情をしていた。彼も当初はさぞかし困惑したに違いない。
行くあても金もないから仕方なく私に付き合ってくれていただけ。
詫びの意味も込めて彼にコーヒーを入れようと食器棚から二つのマグカップを取り出して並べる。
いつもは先生が挽いてくれるけど今日は私が先生の為に挽く。
彼はお酒が一番好きだが、それと同じくらいコーヒーも好きだ。煙草も時々吸うけど、それは好きとかでは無く惰性らしい。そういえば、一度禁煙しようとして失敗してたな。
手動のコーヒーミルを使って豆を粗めに挽くのだけれども、これが結構疲れる。電動のいい奴が欲しい。
豆の削れていく音を聴きながら更に思いを巡らせる。
じゃあ今はどうだろうか。
師弟関係を結んでからは、いい意味でも、悪い意味でも彼とは距離というか、壁というか、一線を引かれている。
でもそのおかげで私も彼には多少なりにも敬意を払うようになったし、失礼な態度も取らなくなった。……と思う。
敢えて『先生』と呼ばせるのも仕事とプライベートを混同してしまわないための意識付けだろう。仕事に私情を挟むと上手く行かなくなる。私が建築士として公平な判断をするためにも彼のイエスマンになり下がる訳にはいかないのだ。
そして、師弟でいる間はお互いの性差を忘れて職務に没頭できた。
直接言い渡された訳ではないけれど、それは実質的な職場恋愛禁止。
当時、見境の無かった私にはこのくらいが丁度良かったのかも知れない。彼は誠実で、師匠として素晴らしい人格者だ。
勝手にそう納得しながら豆を挽き終わると、お気に入りのマグカップにドリッパーをセットした。
チョコレート色の釉薬に黒い幾何学模様の「ヘアルーム」
飴色の釉薬にセージグリーンの曲線模様の「ブロンテ」
これが私のお気に入りのマグカップの名前だ。
彼はマグカップに名前が付いていることすら知らないだろう。私が命名した訳じゃなくそういうシリーズで、カップの裏印にそう書いてある。
元々は二つとも私物だったけど、いつの間かヘアルームは先生専用になっていた。
地味な配色なのに、その独特のギラギラと輝く星のような幾何学的な模様の主張の強さ。まるで目立ちはしないけれど影で好機を狙う先生のようだ。
挽きたての豆をドリッパーに入れ、湯を注ぐと香ばしく甘い香りが立つ。
コーヒーを注いだ二つのマグカップ、ヘアルームとブロンテを連れて先生のいる倉庫へと向かった。
倉庫へ続く廊下には大量の模型が並べられていて、その脇を通っているとまるで特撮ヒーローの気持ちになる。間違えて踏んづけてしまわないようにしないと……てか、一体どれが要る奴で、どれが要らない奴なんだろうか。
「先生、コーヒー入れました。どうぞ」
少し休憩しようと部屋の奥に座る先生に声を掛けると、彼は床に座って何かを読んでいた。
「ちゃんと断捨離やってるんですか?」
呆れながら背後から覗くと、彼は肩をビクリと上下させて開いていた図面を閉じた。
「やってる、やってる。いや懐かしいなと思って」
「それ……」
見てその存在を思い出す。
昔、私が彼に貸してもらった図面だ。
倉庫の本棚に仕舞い込んで、そのまま模型に埋もれてしまっていたらしい。
「この図面、保存期間の15年を過ぎてる。PDFデータ化してこれはもう処分しよう」
「え……捨てちゃうんですか?」
「なんだ?断捨離するんじゃなかったのか?」
「いえ……」
私は彼からその冊子を受け取る。表紙に件名の表記は無い。
中を開くと『K邸 新築工事設計業務(仮名)』というタイトルと共に、先生が二級建築士だったころの建築士登録番号が記載されている。
「これ……私が預かってもいいですか?」
「別にいいけど……まだ実際にある建物だから管理には気をつけろよ。」
「わかりました」
ヘアルームを受け取った先生はコーヒーを一口飲んで不思議そうな顔をする。
「お前が担当した物件じゃないから、そんな思い入れないだろ?」
「……ありますよ」
本当にこの人は……
「な、なんでちょっと怒ってるんだ……」
私の機嫌を敏感に察知した先生は一歩引いて顔色をうかがう。
「知らないっ!早く片付けないと新年迎えてしまいますよ!」
これはまだ捨てられない。
私はその図面をペラペラと巡り、それから大切に抱きしめた。
《保存期間の過ぎた図面》
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます