第6話 これから side築(3)


 彼女は誰なんだ?


 思い出せない。


 俺の胸で泣く彼女にどうすることも出来ず、ただ泣き止むまで天井を仰ぐ。


「築さん」


 あの日、首を吊って段々と遠退いていく意識の中、誰かに名前を呼ばれたような気がした。


 次に鋭い頬の痛みで目が醒めると、そこには数年ぶりに見た弟と、そして見覚えの無い女がいた。彼女はまるで昔からの知り合いかのように俺の名前を呼び、今のように縋り付いて泣いていた。


 彼女は誰だ?


 俺の記憶が抜け落ちてしまったのだろうか。


 首を吊って気を失ったことで俺は彼女のことを忘れてしまったのだろうか。


「もう二度とあんなことはしないと約束して下さい。」


 そうでなければ、どうして俺は今このように彼女に引き取られて食事や風呂にありつけているのか理解が出来ない。


「築さん」


 何故、俺の名前を知っているのか。


「私のこと利用して下さい」


 何故、俺を信用するのか。


「好き、です。ずうっと昔から」


 こんな体たらくの何処が好きだと言うのだろうか。


「築さんがまた働けるようになるまで手助けさせてください。」


 俺はまだ夢を見ているのかも知れない。


「もう一度、線を引いて下さい。」

「……線を……」


 何一つ彼女のことが理解出来ない中、ただひとつだけ、俺は彼女に必要とされている、ということだけは理解出来た。



◆◆◆



 彼女はいわゆる“尽くしたガール”だ。

 彼女は何かと俺の世話を焼きたがった。

 俺は迷惑だ、お人好しのお節介だ。とハッキリ言ってやった。大抵の奴はそれでショックを受けるか、距離を置くが、彼女の場合、傷付くことも気にする様子もなく変わらずニコニコしていた。


「私のことを心配してくださってるんですよね?気を使わなくて大丈夫ですよ」


 などと、トンチンカンなことを言う。

 彼女のポジティブに俺のネガティブが押し負けている。体調がまだ万全じゃないのもあって俺は考えるのをやめた。彼女の言う通り利用してやればいいのだ。


 そう決心した矢先、昨日に続き前日と同じ金額の札束が入った封筒を目の前に置かれた。これで生活費以外の貯金は空になったとあっけらかんとした顔で言うので今度は純粋に彼女の将来が不安になる。こいつ本当にアホなんじゃないか?


「将来、悪い男に騙されるぞ?」


 彼女のお父さん!

 あなたの娘、拾った男に金を貢いでますよ!


 と、心の中で叫びつつも俺がその悪い男なのでちゃっかり有り難く使わせて頂いた。三ヶ月未払いだった家賃の支払いと公共料金、税金、その他クレジットの未払いを支払い終えたので、これで一先ずブラックリストに乗らずに済むだろう。それでもまだ余裕があった。残りの金の使い道は後々考えよう。


 それだけでなく彼女は生活面の面倒まで見てくれた。


 初心者だと言う彼女の手料理に始めは少し不安だったが、性格なのか難しいことはせず、基本的なメニューを教科書通りに作ってくれるので普通に美味い。


「はい、ご飯どうぞ」

「ご飯もおかずも量多くないか?」

「しっかり食べて下さい。お茶はあったかいのと冷たいのどっちがいいですか?」

「どっちでもいいよ」


 年上と一緒だと否応無く気を使わせてしまうよな。


「ふぅふぅ……はい、あーん」

「……自分で食える」


 ……それはもはや世話焼きというより介護だ。


 夜は一部屋しかないのでテーブルを挟んだ反対側に布団を敷いて寝ている。不思議なことに一人で暮らしていた時よりよく寝れた。


 そんなお節介な一方で彼女は何故俺が首を吊ったのか、については理由を聞いてこなかった。


 彼女は「疲れたなら少し休んで下さい。」とだけいい、深入りはして来なかった。


 少しどころか二年程まともな定職に就かず、貯金を切り崩しながらすっからかんになるまで過ごしていたんだから寧ろ休み過ぎた気もする。


 それに彼女を見ていると焦る。


 彼女は毎日忙しく充実した生活を送っているようだ。

 一人で過ごしていた時は、何もやる気が起きず無気力に際悩まさせていたのに、俺より一回り若い彼女とたった数日過ごしただけで、俺も何かしなくてはという焦燥に駆られていた。


 しかし、何から始めようか。


 ふと、机の上の札束が目に止まった。


 ……当たり前だが、先ずは彼女に金を返す為に働かなくては。


 今日一日彼女が大学に行っている間にまず散髪に出かけて、それから彼女のパソコンを借りて仕事を探していたら、あっという間に時間が過ぎていた。


「綺麗になって良かったですね。ふふ」


 短髪になって少しはマシになった俺を彼女は嬉しそうにニコニコみている。昨日は泣いていた癖に現金な奴だ。


「それはそうと、名前はなんて言うんだ?」


 どうやら向こうは俺の事に詳しいらしいが、俺は彼女のことは一切存じない。落ち着いたら直ぐに出て行くつもりだったので、ここに来て五日ほど経った今も彼女の名前すら知らない。


「白樺大学工学部建築学科専攻の二年、東屋ありか、といいます。」


 白樺大学と言うことはウチの弟の通っている大学と同じだ。つまり、どのように出会ったのは分からないが、奴から俺の個人情報が流出したことは間違いないだろう。今度、奴と会うことがあれば一度キツく締めておかなければなるまい。

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