第9話
生徒の教室がある校舎本館の向かい、連絡通路で結ばれた別棟の屋上。
まさにダイスケ達が昼食を取り終えたその時、ラタトスクはその淵に佇んでいた。
サングラスをかけたラタトスクは強い日差しの下でもしっかりとスーツを着こなしている。汗一つかかずに涼しい顔をしているのは彼の先天的な体質ではなく、異能による身体への補正が影響している。個人差はあるが、異能者は例外なく自らの肉体を強化することができる。運動能力の向上や、感覚の鋭敏化、耐久力の上昇や外界からもたらされる負担の軽減など、影響は多岐にわたる。アルビノである彼が直射日光を浴び続けることができるのも、異能者としての身体強化によるところが大きい。
『これで最後です、ラタトスク』
彼に向かって声がかけられた。彼の立つ屋上は、生徒の立ち入りが禁じられている場所である。塔屋や常に施錠されており、教諭が管理する鍵がない限り屋上に出ることはできない。屋上には、彼一人しかいないということだ。
『速やかにそこから立ち去りなさい』
言葉は、彼の頭の中で響いている。その声は、監視者の少女ヘイムダルのもの。彼女の異能〝唄う角笛〟による遠距離からの念話であった。
ラタトスクは困ったように眉を下げた。この無愛想な声は彼がこの場所に立ってからかれこれ一時間ほど鳴り続けている。気の長い自覚のあるラタトスクだが、耳を塞いでも聞こえてくる声にいい加減辟易していた。
「ですから、何度も申し上げているでしょう。私は、対象に危害を加えるつもりは微塵もありません」
僅かな沈黙を置いて、再び声が鳴った。
『あなたがどのようなつもりでその場所にいるのかは問題ではありません。必要以上に対象に接近していること自体が問題なのです。わざわざ高校の敷地内に侵入してまで』
「理由は二つあります。一つは、日本の学生がどのような学校生活を送っているのか気になったから。もう一つは、ワルキューレ・ジークルーネの動向が気に懸かるから」
白い手袋で包まれた手で指を立てるラタトスク。千里眼を持つヘイムダルならば、彼の姿は見えていることだろう。
「ジークルーネは対象を狙っています。遅かれ早かれ彼の前に姿を現すでしょう。なれば、狙う側を追い続けるより、狙われる側の傍で待っている方がいい」
『それはあなたを放置する理由にはなりません。ジークルーネの件も信憑性に欠ける情報です』
飄々としたラタトスクに対して、ヘイムダルはどこまでも淡々と告げた。
『そこを立ち去らないのであれば、実力で排除します』
刹那、ラタトスクは大きな気配を背後に感じ取った。
「おやおや」
彼はゆっくりと、しかし一片の隙も見せず振り返る。
漆黒のローブに包まれた矮躯が、尋常ではない殺気を漂わせていた。ラタトスクの目には、周囲の空間が揺らめいているように見える。並の相手ならばそれだけで黙らせてしまえるほどの濃密な殺気だ。
だが、その殺気には殺意が込められていないことを、ラタトスクは一見して看破した。相手を委縮させ戦意を削ぐ為だけの威嚇行動である。そこに意思はあっても、意志はない。
「このようなところで戦うおつもりですか? 軽率な。多くの犠牲者が出てしまいますよ」
ラタトスクに気圧された様子はない。相変わらずの柔和な様相で、冷徹な事実を口にする。
『最優先は対象の安全です。多少の犠牲はやむを得ません』
感情の伴わない事務的な口調に、ラタトスクは驚いた。いくら上からの命令とは言え、年若い中学生の少女が、戦闘に巻き込まれた一般人をやむを得ない犠牲と切り捨てられるものだろうか。
「ドライですねぇ……嘆かわしい」
異能の世界に立ち入った弊害か。ラタトスクは一人の大人として、少女の無情さに深い自責の念を禁じ得なかった。
目の前に立つスルトは、臨戦態勢を解く気もなさそうだ。
「まったく、物騒な人達だ」
やれやれと首を振り、ラタトスクは両手を掲げた。
「わかりました。そこまで仰るのなら、私も退かないわけにはいきませんね。残念ですが、あなた達に従うことに致します」
渋々といった具合に、ラタトスクは屋上から飛び降りた。校舎裏に無造作に着地して、その足で跳躍、身長よりも高いフェンスを楽々と跳び越える。敷地の外へと出た彼は、肩を落として歩き去るのであった。
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