第2話 引きこもりのにわかと、それを自慢する妹


「ともおちゃん、今日はデザートまで用意したから、たくさん食べてね」


「か、かーちゃん。俺をあんまり甘やかすなって!」


 扉の向こう側から聞こえてきた声に、思わず俺はそう返した。

 俺が引きこもって約一年が経った、五月のことだった。



 電気も何もない小さな部屋。頼りになるのは、壁際にある小さな窓だけ。その窓には鉄格子が嵌められており、そこから日差しが差し込んでいる。

 今の時刻は昼。さっき12時のチャイムがなったから間違いない。


 扉の向こう側からは、人の気配がする。この気配は、うちの母の気配だ。


「冷蔵庫にはアイスもあるから、甘いものが食べたくなったら食べにきてね」


「ほ、本当に、おやつもいらないって……!」


 扉のそばに、何かが置かれる音がした。

 おそらく食事だろう。母はいつもお昼ご飯を持ってきてくれるのだ。


 いつもというのは、あの日からのこと。

 俺が学校に行かなくなった日から、俺は家に引きこもるようになっていた。


 その日以来、毎回うちの母はこんなふうに食事を持ってきてくれる。

 だけど……ご飯は持って来なくてもいいのに。うちの母は俺を甘やかしすぎだと思う。ありがたいことだけど、それは申し訳ないことでもある。


「俺、今日も何もしてないし、お腹減ってないよ……。それに引きこもりで、学校にも行ってないし、食べなくていいよ……」


「分かってるわ。充電期間よね」


「確かに、そんな言い訳したこともあるけど……」


 でも、充電期間はとっくに終わっている。

 そろそろ、決心もつきそうで、自分の現状を解決したいとも思っているのだ。


 しかし……。


「大丈夫よ。無理して頑張らなくていいのよ。頑張りたい時に頑張ろうね」


「か、かーちゃん……」


 びっくりするぐらい、容認してくれるうちの母。

 俺の社会への逃走経路は完璧で、うちの母は全肯定だった。



 あの日から。

 俺が学校に行かなくなってから。

 すでに、一年だ。この部屋に閉じこもるようになってから一年だ。


 その一年もの間、俺はずっとここにいて、うちの母はそのことに対して責めることはなかった。

 むしろ、率先して、俺をここから出なくてもいいようにあれこれ手を焼いてくれている。


 これは……同情だろうか。


「いいえ、愛情よ」


 ……愛情らしい。


 しかし……同情も愛情も俺には必要ない。

 そもそも俺は、同情されることなんてされてないし、どちらかといえば叱咤してほしかった。


 あの日、俺が失恋とも言えない失恋をした時。

 クラスのみんなが俺に同情してくれた。優しく接してくれて、俺はその同情が辛くて学校に行く足を踏み出せなくなってしまった。


 俺が現れると、みんなが気を使うような顔をする。クラス中が俺に同情してくれる。


 だけど……俺がいなかったら、周りのみんなはそうやって気を使う必要がないのだ。


 つまり、俺がいるから周りの空気が悪くなるのだ。俺がいることで、そういう雰囲気になってしまう。


 俺はそれが苦手だった。

 だったら、最初からいない方がいいのだ。


 同情はもうこりごりだ。


 優しさも必要ない。


 優しさに押し潰されそうになるのだ。


 それでも……そろそろ学校に行かないと、マズイことになるというのも分かっている。


 もう、一年経っているのだ。


 しかし……。


「大丈夫。ママは分かっているからね」


「か、かーちゃん……」


 それだけ言うと、母はゆっくりとした足取りでこの部屋から離れていったようだった。

 その後、扉を開けて見てみると、皿に盛り付けられたご飯と共に、プリンが備えられていた。


 そして翌日も母は食事を持ってきてくれて、今日はプリンが一個増えて、二個になっていたのだった。



 * * * * * *



 そして、別の日の別の時間帯。

 時刻は17時ごろといったところだろうか。


「おにーちゃん、ただいま〜。帰ったよ〜」


 ……この声は妹か。


「おかえり」


 俺は帰りの挨拶をしてくれた妹に、扉越しにそう言った。

 あと……そうだ。せっかくだ、今日もプリンが二個あるから、一個分けてあげよう。


 それに、相談したいこともある。


 そう思い、俺が扉を開けようとした時だった。


「! あ、待って待って! 開けなくてもいいよ! お兄ちゃん、つらいでしょ? 大丈夫、お兄ちゃん、ゆっくりそこでお休みしときなよ!」


 ……妹もか!?


 俺が引きこもっていることを、肯定してくれる妹。

 そう、この妹は、俺が引きこもっていることを推奨してくれている。むしろ、逆に俺がここから出ようとすると、必死で引き止めて、引きこもりを長引かせようとしてすらいる。


 母に続き妹までも。

 俺が閉じこもっていることを否定しない。


 ……というか、妹は俺がここに閉じこもってからというもの、態度が大きく変わった。

 前までは、「くそあにき、邪魔なんですけど」と言って、キィっと睨んでいた中学三年生だったのに、俺がここに閉じこもるようになってからというもの、俺のことを「おにーちゃん」とまで呼ぶようにもなって、まるで幼き頃の、純粋だったあの頃のように戻ったみたいだった。


 そんな妹は今年の春で高校生。

 青春真っ盛りのJ Kだ。


「お兄ちゃんは、そのお部屋の中が好きなんだよねっ。だったら、そこから出なくてもいいんだよっ」


「いや、別に好きなわけじゃなくて……。それにずっとここにいるわけにも行かない。俺、今年、高三だから、そろそろ学校行かないとだめかなと思って……」


「だ、大丈夫だって! だって、うちのお兄ちゃん、優秀だもん! だから、もうちょっと、そこにいても問題ないって!」


「い、妹……」


 それは、信頼してくれているのだろうか。


 妹は俺には同情しない。なんというか、真っ直ぐな子なのだ。

 だから、その言葉がすんなりと心に入ってきた。


「……それに、おにーちゃんがその物置に引きこもってくれたおかげで、私、一人で部屋を使えるようになったし……」


「……そっちが本音か!?」


「べ、別に、それだけが理由じゃないよ?」


 扉の向こう側で誤魔化すように言う声が聞こえてきた。

 妹の声の調子は、物置の中にいても手にとるように分かる。


 そう、俺が引きこもっているのは物置だ。

 家の庭にちょこん、と置かれているあの物置。畳二畳ほどの空間。そこで今の俺は生活している。


 それは単純に、うちの家の大きさが関係していたりする。

 うちは一階建てで、部屋が、リビングと、親の部屋と、子供部屋が一部屋しかない。

 これまでの俺は、妹と共同でその子供部屋を使っていた。


 だから、俺がその部屋に引きこもってしまうと、妹に迷惑がかかってしまうのだ。


 当時、妹は中学三年生だった。つまり受験生。勉強の邪魔をするわけには行かない。


 だから俺は、物置に移動した。

 庭にある物置。環境はお世辞にもいいとはいえない。

 引きこもるためには、引きこもる環境が整ってないと、大変なことになるのだ。


 夏場はとにかく蒸し暑い。

 虫とかがしょっちゅう入ってくるし、冬場は寒いし、不便ではある。


 そこに布団だけを抱え込んで、引きこもった俺。

 しかし、その不便さは同時に救いでもあった。


 誰も俺が引きこもったことを否定しない。むしろ甘やかしてくれる。学校に行けば、みんなが失恋をした俺に同情してくれる。

 誰も俺を傷つけようとはしない。しかし、優しさは辛いものでもあるのだ。


 そんな俺を、この環境は叱咤してくれる。

 劣悪な物置での環境が、俺をここから追い出して学校に行かせようと、今日も今日とて虫という刺客を放って、侵入させたり、雨漏りとかさせて、責め立ててくる。


 それは辛いことだけど、悪くはなかった。


 それに、引きこもっていると言っても、俺は普通に用事があったらよくここから出ている。

 毎日風呂にも入ってるし、トイレもトイレでするようにしているし、今まで貯めたお年玉をかき集めて、スーパーのセールを狙っていけば、食べ物もどうにかできるようにはしている。


「おにーちゃん、引きこもりのにわかだもんね」


 ふふっ、と物置の扉の向こう側で、妹が可笑しそうに笑ったのが分かった。


 妹は俺のことを、にわかという。


「でも、私、今のおにーちゃんも嫌いじゃないよ。この前ちらっと見たけど、おにーちゃん、引きこもってから前と顔つきとかも全然違うし、かっこよくなってるもん……。日陰にいるから色白だし、ミステリアスになってるし、細マッチョだし、これも一年間、物置で修行した成果だね」


「別に修行してたわけではないのだけど……」


 妹は最近の俺の姿を見ると、拝んだりもしてくる。


 確かに虫の気配とか、蒸し暑い空間の中での体温調整とかは、敏感になった感じではあるにはある。

 物置の中にはダイエット器具とかもあったから、俺はがむしゃらにトレーニングをしまくったりもしていた。


「近所で噂になってるよ。あの物置には、細マッチョのイケメンが住んでるって」


「……それは普通に悪口じゃないか!?」


「えへへっ。私が自慢してまわったの! だっておにーちゃん、とってもカッコよくなってるんだもん! 自慢したくなるでしょ!」


 扉の向こう側で、妹の機嫌の良さそうな声が聞こえてきた。


「とにかく、おにーちゃんはもうちょっとゆっくりしてなよ。ここにはおにーちゃんの味方しかいないんだよっ。がんばっ」


 妹はそう言うと、優しい言葉を残して軽やかな足取りで去っていった。


 ……まずい……このままだと、本当にここから出れなくなりそう……。



 * * * * * *



 そんな日々の中ーー。

 最近になると、よく考えることがある。


 それは、もうずっと言っている通り、そろそろここから出ないといけないんじゃないだろうか……ということだった。


 日中、俺が薄暗い部屋で過ごしている間、俺以外の同級生は学校に行き、青春を満喫している。

 別に俺は学校が嫌いというわけではなかった。行くのが面倒くさい、あまり気分が乗らない。……そう思いはしていたこともあるけど、それでも皆勤賞で登校していた。


 それに、俺は嫌なことがあったから、学校に行かなくなったわけじゃない

 あの同情する視線が嫌で、それが落ち着くまで、少しの間休もうかな……と思ったのが、最初だったのだ。


 それが今日までズルズルと続いていて。

 そろそろ行かないとだめだ、と思いはするものの、結局は行けずにいる。


 ……なんだかんだで楽だったのだ。


 母や妹も行かなくていいと言ってくれている。

 行かない理由を、そのせいにすればいいだけなのだから。



 結局……、どうすれば正解だったのだろう。


 俺はそう思いながら、窓の外を見てみる。

 鉄格子が嵌められている物置の窓。その窓から差し込む光り。


 あの向こう側に行くために、必要な理由が欲しかった。

 それすらも、他人任せで、俺は今日もこの部屋にいる。



 しかし。

 終わりは突然やってくる。



「もお君! 久しぶり! 幼馴染の私が、迎えにきたよ!」


「こ、この声は……」


 俺は、ハッとした。


 窓の外から、無性に懐かしい声が聞こえてきた。


 それは、三年前に俺の前からいなくなっていた幼馴染の声だった。


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