翁草.10

 内気剛気の朝は早い。

 午前五時、目覚ましが鳴ると同時に目を覚まし、多忙な妻を起こさないように寝室を出る。

 洗面台で顔を洗って眠気を飛ばし、朝ご飯の支度を済ませる。

 同時にお弁当の用意も忘れない。

 妻の大切な喉の為に、刺激物や化学調味料などは一切入っていない。

 朝ご飯が出来上がった頃には時計は六時を指していた。

 剛気は妻をお越しに寝室へ向かう。

 真っ暗な室内の電気をつけると、彼女はまだ深い眠りの中だった。

 眠り姫のように美しい寝姿の彼女を起こすのは気が引けるが、寝坊させるわけにはいかない。

 剛気は彼女の肩を優しく叩く。

「起きる時間だよ」

 妻は反応するが、寝返りを打って起床から逃れようとする。

 剛気はベッドに上がって、もう一度妻に声をかける。

「今日は生放送に出るんだろ。遅刻してもいいのか? 鈴」

 内気鈴の目蓋がゆっくりと開く。

「おはよう鈴」

「おはよう」

「朝食できてるぞ」

「連れてって」

 甘えるように肩に手を伸ばしてきた鈴を抱き抱える。

 結婚当初は鈴の甘え具合に驚いたが、今では日常の一部だった。

 お姫様抱っこをしてリビングに連れて行き、朝食が並ぶテーブルに座らせる。

 起きた当初は夢現だった鈴も、食べ進めるうちに覚醒してきたようだ。

 職業柄体力を使うからだろう。

 愛らしい外見からは想像もできないほどの速さで完食した

「支度手伝って」

 寝巻き姿の鈴と一緒に化粧台へ。

 化粧をしている間に、剛気が髪を梳かし、彼女の指定した服を用意する。

「ありがとう。じゃあ行ってきます」

「鈴、忘れ物」

 用意を終えてすぐに出かけようとする鈴に、剛気は弁当を手渡す。

 一秒ほど、鈴はサングラスをかけたまま弁当が入った袋を見つめていたが、一言お礼を言ってから受け取った。

 小走りで玄関に向かった鈴が小さな悲鳴を上げ、何かが倒れる音が聞こえた。

 剛気が見に行くと、玄関脇に置いてあったスコップを倒してしまったようだ。

「怪我してない? 直しておくから」

 鈴を見送った剛気は彼女が倒してしまった二本のスコップを立てかける。

 去年の冬、大雪警報が出た時に買ったものだった。

 初めての雪かきになるかもしれないと、ネットで調べ、鉄製の頑丈なスコップを、予備を含めて二本買ったのだ。

 結局予報は外れて、今は玄関のオブジェと化している。

 日差しの苦手な鈴が出かけたので、剛気はカーテンを開け放つ。

 目を細めるほどの眩しい日差しがリビングに降り注いだ。

 剛気達が住むのは小高い丘にあるマンションだ。

 窓からは通っていた高校だけでなく、プロ野球の試合や結婚式などのイベントも行われるブルースタードーム。

 そして鈴お気に入りのあの枝垂れ桜も見える。

 まだ葉が生い茂っているが、目を凝らせば所々に桜色が混じっている。

 満開になれば沢山の花見客で溢れるだろう。

 満開の枝垂れ桜を見て喜ぶ鈴の姿を想像しながら、剛気は家事を始める。

 リビングに掃除機をかけながら、ふと時計を見た。

「そろそろ始まるな」

 テレビをつけてワイドショーにチャンネルを合わせる。

 今日は鈴が出演する予定なのだ。

 テレビをつけたまま掃除を続け彼女の登場を待つ。

「今回のゲストは今人気急上昇の歌手、内気鈴さんです」

 司会の声が聞こえたので剛気は掃除機の唸りを止めてテーブルにつく。

 家では剛気に甘えてばかりの鈴だが、テレビに映る彼女はそんなそぶりを微塵も感じさせない。

 司会の隣に座った鈴は、質問に答えつつ、カメラに向けて笑顔を見せていた。

 そんな笑顔を向けられた彼女のファン達は、大喜びに違いない。

 夫である剛気がそういう気持ちなんだから。

 トークを終えた鈴は歌手のゲスト恒例とも言うべき、新曲を披露する。

 歌い終えて司会やコメンテイターから絶賛の言葉に、鈴がお礼を言ったところでCMになった。


 高校を卒業してすぐ、鈴はプロの歌手を目指してネットやテレビの企画のオーディションに応募した。

 剛気は恋人として、彼女を応援し続けサポートしてきた。

 最初は審査員の前で歌う事が重圧となって上手く歌えず、結果は散々なものだった。

 何度も落ち込んで夢を諦めようとする鈴を、剛気は根気よく励まし支え続けた。

 何度も何度も蹴落とされた事で、耐性がついたのか、鈴は審査員の前でも臆する事なく歌う事ができるようになっていた。

 そして、ある視聴者参加型のオーディションで参加者の中で抜きん出た成績で合格したのだ。

 視聴者のコメントで画面が文字通り埋め尽くされた事は、今も伝説として語り継がれている。


 自分の分の弁当を食べ終え、夕食の買い物に行こうとしたところでスマホが着信を告げる。

 液晶画面に表示された番号は高校時代の先輩からだった。

「お久しぶりです。善財、いえ壮快先輩」

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