翁草.8
剛気は鈴に会う為、一人で音楽室に行くようになった。
結妃への報告をするためでもあったが、それ以上に鈴の歌っている姿をまた見たいと思っていた。
けれども、音楽室には他の生徒達もいるし、大分先生もいる。
入ろうとすれば門前払いされてしまい、最悪近づく事も難しくなる。
中々いい策が思い浮かばず、壁越しに歌を聞いたり、扉にある小さな窓から覗くことしかできなかった。
この姿を誰かに見られていたら、不審者扱いされても文句は言えない。
部活終わりに行ってみたが、帰ろうとしていた鈴に見つかって脱兎の如く逃げられてしまった。
それでも、何度も通って分かった事がある。
大分先生はどうやら鈴に厳しく当たっているらしい。
生徒達がいる前で、鈴を名指しで面罵している声が聞こえてきたからだ。
辛い立場にある鈴を救ってやりたいと思うが、学校に対して何の影響力もない剛気に出来る事はなかった。
ある曇り空の放課後、音楽室は無人だった。
どうやら今日は部活が休みらしいが、教室には鈴の姿はなかった。
もう帰ったのかもしれない。
仕方なく帰る事にして階段を降りようとした時、上から微かに声が聞こえてくる。
その聞き覚えのある声は屋上からだった。
扉をゆっくりと開けると、春の暖かい日差しが屋上全体と一人の少女を照らしていた。
鈴が歌っている。
声は伸び伸びと空に登っていき、それを聞いたお日様が雲から顔を出し、鈴だけを照らしていたのだ。
剛気は驚かさないように最新の注意を払って近づく。
鈴が歌い終えると同時に、満足したのか、太陽も雲の中に消えていった。
代わりに唯一の聴衆だった剛気が拍手を送る。
よほど驚いたのだろう。素早く振り向いた鈴は、自らを守るように胸の前で手を合わせる。
剛気は両手を上にあげて危害を加えるつもりはないことをアピールした。
「話をしたいだけなんだ」
鈴は躊躇いながらも、最後は小さく頷いてくれた。
二人は屋上にあるベンチに並んで座る。
先程降り注いでいた日差しで、粗末なベンチはほんのりと温かくなっていた。
先に鈴が次に剛気が座る。すると鈴は人が一人分入れるくらいのスペースを開けた。
まだ警戒されているのだろう。
剛気はその距離を保ったまま、目を合わせようとしない鈴に話しかける。
「よくここで歌うの」
鈴は前髪で表情を隠したまま頷く。
「ここから見える桜が綺麗だから、時々ここで歌っています」
固い口調の鈴の言う通り、公園に一本だけある枝垂れ桜が見事に咲き開いていた。
「歌うの上手いね。初めて近くで聞いた時、感動して動けなくなっちゃった」
「この前の音楽室ですか?」
歌の事を褒められたからだろうか、初めて剛気の方を見てくれた。
「そう。天使さんの声すごく綺麗で、心がスーと浄化されるような、モヤモヤしたものが洗い流されていく感じだった」
言い終えて意味不明な事を言ってしまったと後悔した。
「そう言ってくれて、嬉しいです」
鈴は言葉を噛み砕いて自分なりに理解してくれたようだ。
「あの、変な事聞くけれど。音楽室に行くの嫌なんじゃない?」
また鈴は目を逸らしてしまう。
しかし、それは剛気の言葉を肯定していた。
「先生は」
根気よく待つと、鈴は自らの口をこじ開けるように言葉を紡ぐ。
「大分先生、鈴にだけ厳しいんです。他の子なら許されるような事でも、全然許してくれなくて。いつも怒られてばかりで」
「何か心当たりはないの」
鈴は整えた髪が乱れるのも構わず、首を左右に振った。
「分かりません。いつも睨まれて、部活に入ってから更に厳しくなって……」
言葉に嗚咽が混じり泣き出してしまう。
剛気はポケットに入っていたしわくちゃのハンカチを差し出す。
「くしゃくしゃだけど、ちゃんと洗濯はしてあるから」
母親に待たされていたハンカチが役に立つ時が来るとは思ってもいなかった。
受け取った鈴は「ありがとう」と言いながら、しわくちゃのハンカチで目頭を抑えた。
「内気君は優しいんですね。兄様みたい」
初めて苗字を呼んでくれて、胸の奥が温かくなる。
「兄様、あっ壮快先輩の事?」
「うん。いつも何かあったら助けてくれます。とっても頼りになる王子様みたいな人」
鈴の一言に剛気はある事を閃く。
すぐにスマホを取り出すと、登録しておいた番号で結妃を呼び出した。
「善財先輩。聞いてください。貴女と壮快先輩の力を借りたいんです」
剛気を見上げる鈴を安心させるように一度頷いてから続ける。
「天使さんが気持ちよく歌えるように、力を貸してください」
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