第65話 温暖前線

「高度三〇〇〇メートルに到達。安定しました」

「ではスロットルを調整して巡航飛行に移りましょう」


 忠弥は機体を水平に保つとスロットルを調整して時速一五〇キロに合わせる。

 これまでの試験飛行で最も燃料消費の少ない速度だからだ。


「少し休憩されては?」

「離陸したばかりだよ。それほど疲れていない」

「今後の事を考えますと休んでおいた方が良いでしょう。それに私も機体に慣れておきたいので」


 機体の調子は自分で操縦桿を握って初めて分かる。

 今の操縦は忠弥が行っており、相原大尉は操縦桿に手を触れているが、忠弥の動きをサポートする程度で、自分で引くことはない。

 これでは機体の状態は相原大尉には分からない


「分かりました。ではお言葉に甘えて少し休ませて貰います。今日は台風の後で湿気が多くて空気が重いです。そこだけ注意して下さい」

「了解」


 忠弥は相原大尉に任せる事にした自発的に進んでいく人を咎めることなど出来ない。

 忠弥は操縦を相原大尉に譲ると、操縦桿から手を離してお茶にする。

 魔法瓶のお茶は温かい。電熱服は十分に温かいが呼吸をすると口や鼻が冷たくなるので温かいお茶の湯気は有り難い。


「暫くは快調に進むでしょう。お休みに成られては」

「そうだね」


 早朝に起床してこれまでずっと最終確認に追われていた。

 緊張が抜けると疲労感が忠弥に襲ってきた。


「ではお言葉に甘えて休ませて貰うよ。何か有ったら起こして。それ以外は任せます」

「宜候」


 海軍用語で了解と答えると相原大尉は前を見て進む。一方の忠弥は椅子に座ったまま眠り始めた。

 狭い機内だが試験を含め一〇〇時間以上乗っていると腰が椅子に馴染み、リラックスできる。

 疲労もあり忠弥は直ぐに眠ってしまった。


「うん?」


 いつの間にか寝ていた忠弥は起きた。時計を見ると五時間くらい経っている。

「相原大尉、交代時間を過ぎている。途中で起こして欲しかった」

「済みません。よく眠られていたので」

「とはいっても相原大尉こそ大丈夫なのか」

「軍艦の当直で鍛えられておりますので」

「それでも疲れた状態で飛行するのは宜しくない」


 知らず知らずのうちに疲労が蓄積して失神するように眠ってしまうことはある。

 太平洋戦争中、長距離制空任務で編隊を組んでいた零戦の一機が帰還するとき、突然機首を下げて一直線に墜落していくのを目撃した証言がある。原因は分からないが、疲労による居眠りが原因と考えられる。戦闘を含む七時間前後の飛行を連日続けたら疲労も溜まる。


「君の腕に僕の命も掛かっているんだ。疲れてミスをされたら困る。だから交代で休むんだ。頼むよ」

「失礼しました。では休ませて貰います」


 操縦桿を忠弥と代わった相原大尉はカネ餅を食べ味噌汁を飲むと直ぐに寝てしまった。

 これも海軍の当直で身につけた技能だろうか。エンジンの轟音が響き狭く寒い場所でも悪環境でも眠れるのは嵐の中でも過ごす軍艦の中にいるからだろうか。

 この機体になれてくれるのは嬉しいし、羨ましいし、頼りがいがある。

 やはり相原大尉を相棒に迎えたのは正解だった。

 忠弥は安心して飛行を続ける事が出来る。

 ただ、よく眠っていたので起きるまでの四時間ほどを忠弥は一人で飛ばした。

 そして、今度は相原大尉が文句を言ってくる番だった。


「無理しないで下さいよ」

「一応一〇時間くらい連続単独飛行を行っているから大丈夫なんだけど」


 互いに苦笑しながら言うと、無線が入った。


『士魂号へ、配置中の軍艦から前方に巨大な雲が発達中との連絡あり、注意されたし』


 地上からの情報に忠弥と相原大尉は気を引き締める。

 こちらからは発信できない。無線機の出力が小さすぎて、受信は出来ても送信は不可能だ。


「やっぱり順調とは行かないようだね」


 忠弥が前を見ていると前方に発達しつつある雲が見えてきた。

 快晴のために海面が急速に温められて上昇気流が発生し、雲を発達させている。

 雲は瞬く間に、士魂号の高度を超えて更に高くなっている。


「迂回しよう」

「賛成です」


 相原大尉も賛成した。雲の中に入ると空間失調症となり、知らず知らずのうちに高度が下がっていたり、逆さまになっている事がある。

 下手をすれば墜落してしまう。

 機体を南に向けて変針させ、雲を回避しようとする。

 だが、雲は続々と発達し行く手を阻んでいる。


「不味いな、このまま進路を逸れ続けると大陸に近づけない」


 前線が出来ているのか、雲は次々と発達し、壁のように大陸への道を阻んでいる。


「雲が低いところを見つけて越えよう。今ならまだ短時間で突き抜けられるはずだ」

「はい」


 忠弥は士魂号のスロットルを上げて高度を上げる。燃料消費が多くなるが、気にしない。

 出発から七時間も経ち燃料が三分の一程減ったため機体は軽くなったので上昇も離陸の時よりスムーズだ。


「高度が予想より上がっていきます」


 だが順調すぎた。


「上昇気流か。益々前線のようだな」


 忠弥は苦笑いしながら言う。

 士魂号は上昇して行き雲が低い場所、直ぐに突き抜けられそうな場所を見つける。

 相原大尉はそこに向かって士魂号を突っ込ませた。

 しかし、雲の成長が早く士魂号は雲に捕らえられてしまい雲中に入る。

 雲の中は気流が乱れているため機体が激しく揺れる。

 操縦桿を使って必死に機体を安定させようとするが、翼と操縦桿が重い。

 機体は上下左右に振り回される。何とか飛ばすので精一杯だ。


「うう、寒い」

「寒気の中に突っ込んだか」


 急激に機内が寒くなり忠弥達は寒さに震えた。


「もう確実に温暖前線に突っ込んだね」


 寒気の上に暖気が乗った状態を温暖前線と呼ぶ。北半球の場合低気圧の南東側に出来る事が多い。

 乱層雲や高層雲を発生させやすい前線だ。そして前線を越えると冷たい寒気となる。

 温暖と付いていても寒気と暖気のぶつかり合いであり、暖気から寒気へ移れば寒くなるのは当然だった。


「忠弥さん、エンジンの温度が下がっています」

「カウルフラップを閉じて調整」


 エンジン後部の蓋を閉じてエンジンの温度低下を防ぐ。

 寒さと湿り気が多いと熱を奪われやすい。エンジンへの空気流入量を減らしてエンジンを温かくする。


「まだ下がります」

「翼へのオイル循環を中止、翼へのバルブを閉じて」

「そんな、翼に氷が付いてしまいます」

「エンジンが冷えて止まるよりマシだ。何とかするから、止めて」

「は、はい」


 バルブを閉じて暫くするとエンジン温度が上昇し始めた。

 エンジン音が快調になり、士魂号は進んで行く。

 やがて雲を突き抜け青空が再び目の前に広がった。


「越えましたね」

「ああ、何とかなったな」


 二人が安堵していると、突然エンジンからプスンプスンと気の抜けた音が響き始める。


「何だ?」


 二人が疑問に思っていると、やがてエンジンは静かに停止し、目の前のプロペラが止まった。

 

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