其の十

   †10†

 リリー館と呼ばれる洋館は、霧雨きりさめ市と恩田おんだ市に跨がる山の頂上付近に、半ば森に埋もれるようにしてぽつんと建っていた。

 その門前に立った小豆あずきは、その不気味なたたずまいに思わず後退あとずさりそうになった。

 映画で見た時より庭草が伸び、壁や窓には汚れが目立っていて、いかにも廃墟といった外観になっていたのだ。


「……普通、こういうトコは警備会社が入ってるモンだが、ステッカーが無いな」


 朝倉あさくらがヘッドライトの明かりで門柱を探っている。


「おい、中ぁ入るぞ。通用口は最近開いた形跡がある。ここなら開けてもバレねぇだろ」

「あら、気が利くのね、叔父さん」


 朝倉が通用口の取っ手に手を掛け、何度か動かすと軋みながらゆっくりと開いた。小豆が懐中電灯を点けて庭を照らしてみたが、腰よりも高く伸びた雑草がまるで迷路のようになっていて、まっすぐ歩くことは難しそうだ。

 幸い、石畳を敷いた道が大きく迂回うかいしながら洋館の玄関へと繋がっているようだ。小豆は右手に金剛鈴こんごうれい、左手に懐中電灯を持って庭に入ろうとした。


「……気ぃつけろよ。くれぐれも無茶すんな」

「ついてこないの?」

「オレはオレで周囲を探っとく」


 朝倉は車の運転席に戻ると、ヘッドライトを消した。


「と言いたいが、力仕事があるかもしれんからな。仕方ねぇ、行ってやるよ」

「ありがと。じゃ、行きましょうか」


 小豆はすう、と深呼吸すると庭に一歩、踏み込んだ。

 その途端、周辺の気温が一段と低くなった。

 伸び放題の庭草の向こうから、庭草をかき分け、踏みしめて歩く足音が聞こえる。獣にしては歩幅が大きく、ゆったりとした歩みだし、音のする方に目をやっても草をかき分けている様子はない。


「この様子、相当溜まってるわね」

「ああ。長く人が住まないで放っとかれたんだろう。空き家は良くねぇモンを引きつけるからな」


 朝倉が吐き捨てるように言った。


「ま、あんなのはせいぜい脅かすくらいの力しかないがな」

「そうね。当てられても数日寝込む程度のこと。一体だけなら、ね」


 小豆は朝倉に目配せすると、金剛鈴のぜつに巻いていた白布を外した。

 足音の数は急速に増え、玄関前にたどり着いた時には完全に取り囲まれていた。


「ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、と」


 数を数えながら金剛鈴を打つ。十回目を打つと同時に、場の空気が変わった。小豆たちを取り巻いていた気配がいくぶん少なくなり、体感温度も少し高くなった気がする。


「よし、入るぞ」


 朝倉が玄関の扉に手をかけた。

 観音開きの扉を開けると、わずかにカビの匂いが混ざった空気が流れ出てきた。懐中電灯で照らしてみると、どうやらそこはホールになっているようだった。

 小豆たちが踏み込むと、奥へと通じる廊下から白いものがいだしてきた。遠目には赤ん坊に見えるが、こんなところにいるはずがない。

 祟勿怪タタリモッケ野摘児ノツゴなどと呼ばれる小妖怪の類だろうと、小豆は見当を付けた。


「かけまくもかしこ高天原たかまがはらにおわします伊左那岐大神いざなぎのおおかみ筑紫ちくし日向ひむかたちばな小戸おどのあわぎはら御禊みそぎはらたまいしときせる祓戸はらえど大神おおかみたち、諸々もろもろ禍事まがごとつみけがれらむをば、はらたまきよたまえとまおことこしせとかしこかしこみもまおす……」


 金剛鈴を打って、一つ。


「霧雨の巫女が命じる。ところ母のさとにあらず。汝が母の待つは彼の岸なり。鐘の音をついえとして賽の河を渡らせんと思えば、ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、との音とともに疾く渡りて待ちたる母が処へ帰られよ」


 そして立て続けに十度打った。

 廊下をうごめく赤子の姿は闇にけるようにして消えていった。


「はあ……、キツいわね。これ以上立て続けに来られると厄介だわ」

「同感だな。煙草でもふかしてみるか」


 朝倉が煙草に火を付ける。あたりに紫煙しえんが漂い始めると、周囲を取り囲む気配がさらに少なくなった。

 小豆たちはだいぶ廊下を進んだ後、一つの部屋の前で止まった。元は主人の部屋だったらしく、他とは少し違う装飾の扉が無言の威圧を放っている。その扉の向こうから、何者かの気配を感じたのだ。


「まあ、少なくとも浅井じゃなさそうだな」

「……そうね」


 小豆は短く答え、扉に手をかけた。

 かちり、と小さな音がして扉が開く。

 室内にはいくつもの燭台しょくだいが置かれ、蝋燭ろうそくに火が灯されていた。

 その薄ぼんやりとした光に照らし出されたのは、映画の最初と最後に映し出された、あの書斎。ゆらゆらと揺れる火影ほかげの中、一人の少女が椅子に座し、本を読んでいた。

 シックな黒のワンピースに身を包み、背中まである黒髪を黒いリボンで首の後ろに結わえたその少女は、気配を感じたのかふ、と顔を上げ、口元をにっと広げた。


『わたしをおこした、ひとがいた』


 少女は手にしていた本を机の上に置き、椅子から立ち上がる。


『ひとをくっていいと、かれはいった』


 唄うように言葉をつむぎつつ、机を迂回して小豆たちの方に近づいてくる。


『えものはつかいが、あつめてくれる』


 黄金色の瞳の中央に黒々とした瞳孔どうこうが開いている。


『おとこがひとつと、おんながひとつ』


 それは、人間の目ではなく、猫科の獣の目だった。


『あれはとっても、おいしかった。だけど』


 少女は足を止める。


『こよいつかいはかえらない』


 小豆は息を呑んだ。


『かえらないったらかえらない』


 金剛鈴を握りしめ、いつでも打てるように身構える。


『どうしてどうしてかえらない』


 少女が足を止める。


『かえらないのはおまえのせい』


 少女はすっ、と膝を曲げ、小豆の顔を見据えた。


『だからおまえがしぬといい』


 少女の姿が一瞬にしてかき消えた。と思った次の瞬間にはすぐ目の前に着地し、小豆に向かって両手を伸ばしてくる。

 小豆はとっさに後ずさってそれを避けた。

 だが、少女は着地した勢いのまま第二撃と飛びかかってくる。

 小豆は体を床に投げ出すようにしてなんとかかわした。

 少女はと見ると、朝倉と小豆とどちらを狙うべきか迷っているように見えた。

 朝倉がふかしている煙草が気になっているのかもしれない。


「ほほう、こいつぁ万能だな。ある意味で最強の魔除けかもしれん」


 朝倉は冗談めかしているが、声の調子には余裕がない。


「かけまくもかしこ高天原たかまがはらにおわします伊左那岐大神いざなぎのおおかみ……」


 小豆は立ち上がりながら早口で祭文さいもんを唱えようとした。


『きえて、しんで、いなくなって』


 祭文をさえぎるように少女が飛びかかってくる。

 壁を足場にして加速し、驚異的な速さで迫ってくる。

 咄嗟とっさのことで体が動かない小豆の前に朝倉が割って入った。

 少女の爪が朝倉の右腕を引っ掻く。

 右の袖が大きく裂け、傷口から血が流れ出しているのがわかる。


「大丈夫か、おい?」

「ええ、なんとか……」


 そう強がりながら、小豆は廊下へ下がった。

 少女はと見ると、朝倉の腕をかすめた、そのままの勢いで壁を足場に跳躍を繰り返し、戻って来るところだった。


「叔父さん、ここお願いできる?」

「長くは持たんぞ」


 小豆の意図を悟ってか、朝倉はそれだけ言って、部屋の扉を後ろ手に閉めた。


「こっちだって、簡単に死ぬ気はないわよ」


 小豆は答えながら、廊下の奥へ向かって走り出した。

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