其の三

   †3†


 あのおまじないをやってから、それまでの不幸が嘘のように、幸運が舞い込んできた。

 じゅんは家に帰ると、まず自室のクローゼットに隠してある小さな箱に手を合わせた。

 表面に和紙を貼った、手のひら大の箱で、中には例の人形がしまってある。


「ひいな神さま、ありがとうございました。今日も一日楽しく過ごせました」


 次いで、鞄から饅頭まんじゅうを出して箱の前に供えてある饅頭と取り替える。


「次は何をお願いしようかな……」


 純はしばらく考えていたが、やがてうん、とうなづいた。


「素敵な男性と巡り合わせてください。うーん、できればなるべく優秀な人がいいな……」


 そもそもの目的はそれだったはずなのだが、少し気後きおくれがして後回しにしていた。その願いを、純はようやく口にしたのだ。


「うーん、成績優秀、スポーツ万能で気配りもできて……なんて、そんなパーフェクトヒューマンが実在しないのは知ってます。でも、せめてアイドルみたいなイケメンとお知り合いになりたいな」


 純はクローゼットを閉めると、制服から部屋着に着替えてリビングに降りた。

 純が帰る時間にはまだ母親はパートから帰っていない。

 純はエアコンのスイッチを入れ、台所から取っておいたプリンを持ってくると、ソファに落ち着いてテレビを点けた。

 とはいっても、画面の中で型どおりの答弁を繰り返す政治家にはまったく興味がない。テレビはただ点けただけだ。


 代わりにスマートフォンからニュースサイトに接続してヘッドラインを確認する。廊下にも冷気を行き渡らせるべく、リビングのドアは半開きにしてある。

 芸能、生活、ペット……ヘッドラインを斜め読みし、時に記事本文に目を通しながら器用にスプーンを使ってプリンを口に運ぶ。


「はわぁぁぁ……冷たくておいしい……」


 思わず独り言が漏れ出すが、当然それを聞く者はいない。

 そのはずだった。


 ぱたん。


 半開きだったリビングのドアが小さな音を立てて閉まった。

 それに続いて軽い足音。


「はわ……?」


 純は慌てて周囲を見回した。

 夕暮れのせいか、どこか薄暗い感じのするリビングにはもちろん、カウンターをへだてた先のキッチンにも、人の姿はない。

 仕方なく、プリンを置いて立ち上がると、リビングのドアを開けた。

 正面に二階へ通じる階段、右手には玄関に続く短い廊下が続いている。


 ぱたたたっ。


 二階で、小さな足音がした。


「はう……」


 純はもう一度じっ、と耳を澄ませた。

 もしかしたら気のせいかもしれない。

 でも、もしかしたら泥棒かもしれない。

 それに、クローゼットの中のあの箱が見つかってしまったら?

 見つかるだけならいい。開けられてしまったら?

 おまじないの効力が消えてしまう!

 純は意を決して階段に足をかけた。


 ぎし。


 築二十年の借家は階段を一段上るだけでも大きな音を立ててきしむ。


 ぎし。


 だから、慣れてしまえば軋み方で両親のどちらが階段を上り下りしているのかさえわかる。


 ぎし。


 純はそのことに思い至って、足を止めた。

 ドアの音がしてから階段を上り始めるまで、この階段が軋む音を聞いていない。つまり、足音の主は階段を使わずに二階へ上ったことになるのだ。


 ――相手が人間なら。


 背筋に冷たいものを差し込まれた気がして、純は慌てて階段を降りた。


「な、何がいるの……?」


 確かめたい。

 でも、その勇気が出ない。

 純はリビングに戻ると、スマートフォンを手に取った。

 焦る手で何度も操作を間違え、その度にやり直しながらチャットで友達に送ろうとした。


 ばたばたばたばたばたばたばたばたばたばたばた!


 突然、激しい足音が階段を降りてきた。


「ふひっ!?」


 驚いた純はスマートフォンを取り落としてしまった。純の手を離れたスマートフォンはローテーブルに当たって一度弾んだ後カーペットの上に落ちる。

 次に何が起こるのか、純は戦々恐々せんせんきょうきょうとしたが、特に何が起こることもないまま時間が過ぎていく。

 五分が経ち、十分が経っても何も起こらない。

 そして結局、その日はそれ以上のことは何も起こらなかった。

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