其の二

   †2†


 七月の美術室は窓を全開にしても暑い。

 冷房のような気の利いた設備もなく、窓からは湿気混じりの熱風が吹き込んでくるような有様だ。壁には扇風機が数台設置されているが、いくら回っていても不快な空気をかき回すばかりであまり変わらない。

 浅井雅紀あさいまさきは画板に向かってデッサンの練習をしながら、隣で難しい顔をしている土田小豆つちだあずきの手元をのぞき込んだ。

 当然、そこには今日のお題である、ヴィーナスの胸像が描かれているはずだったが、雅紀にはどう見てもピカソの代表作、『泣く女』にしか見えなかった。


「なあ、土田?」

「し、しょうがないじゃない。……あたし、絵心ないんだから」


 頬を赤らめて目を反らす小豆。


「ま、まあ最初はそんなもんだよ。大丈夫、練習すれば上達するから」


 雅紀は月並みな慰めを口にして自分の方に戻った。


「ええ、そうでしょうよ」


 対する小豆もそれだけ言ってむっつり黙り込んでしまった。


「あー、土田……その」


 雅紀はなんとかフォローしようと思ったが、言葉が出てこない。

 なにしろ、雅紀は小学校の頃から絵を描いていて、中学で美術部に入ってからは水彩をメインに様々な画材に挑戦している。

 今月に入ってから美術部に入った小豆とは経験の絶対量が違った。


「ん、そういえば浅井くん、この前すすめた本、読んでる?」


 ようやく小豆が口を開いたのは、しばらく経ってからだった。


「あの分厚いやつね。うん、一応読んではいるけど、正直よくわからないな」

「わからなくても読んでるならいいのよ。うん、まあ少しはお勉強なさい。寄ってくる魑魅魍魎ちみもうりょうくらいは自分で撃退できるようにね」


 小豆とは先月に知り合った。

 雅紀は八尺様はっしゃくさまと呼ばれる悪神に狙われていたのだが、その危地を救ってくれたのが魔女を自称する小豆だったのだ。

 しかし、雅紀はその一件があって以来、霊感が強くなっているらしい。

 そのままでは周辺の魑魅魍魎を際限なく寄せ付けてしまうということで、小豆が魔術や巫術ふじゅつ古神道こしんとうなどにまつわる本を何冊か見繕みつくろって貸してくれたのだ。


「あー、がんばるよ。そもそも、どうして急にあんなものが見えるようになったんだ?」


 雅紀の視線の先では白い煙かもやのようなものがふわふわと流れている。


「これはあたしの予測でしかないけど、聞いてくれる?」

「うん、聞くよ」

「多分、八尺様とごく近い距離で遭遇してしまったことが原因で、一時的に霊感が目覚めてしまっている状態なんだと思うわ。でも、ひょっとしたら一時的じゃないかもしれない」

「なんだって!?」

「かもしれない、って話よ。だって、本来なら神様の生けにえになるはずだったんですもの。それに、目印だってまだ消えてないはずよ」

「それじゃあ、霊感が消えても変わらないじゃないか」

「そういうものよ。いつだって向こうさまは理不尽なものなの」


 小豆は小さく息を吐いて鉛筆を置いた。


「魑魅魍魎にできることなんてたかが知れてるし、無理に消そうとすることもない……と、これは私の考えだけど」

「でも霊感が強いと色々寄せ付けるんだろ?」

「ええ、色々と。でも深刻な影響が出るほどの大物はなかなかいないから大丈夫よ」


 小豆がそう言うだけで、本当に大丈夫のような気がしてくるのだから不思議なものだ。


「大物、か。確かに八尺様みたいな大物はそうそういないだろうな」


 雅紀がつぶやいた時、五時のチャイムが鳴った。


「今日はここまでにするか」

「そうね、片づけましょ」


 二人は各々の使った道具を手早く片づけると、美術室を出た。

 階段に差し掛かったとき、上の階から女子生徒が降りてきた。

 長い髪を赤い紐でポニーテールにった、活発な印象の女子で、タイの色からすると同じ一年生のようだ。


「はわっ、土田さん! 今帰り?」

「ええ、そうよ。あ、いい機会だから紹介するわね。これ、同じ部活の浅井くん」

「これってなんだよ」

「英語だと『これthis』だからいいのよ。で、この娘は同じクラスの筒井つついさん」

筒井純つついじゅんです。よろしく!」

「ど、どうも。浅井雅紀です」


 純は満面の笑みを浮かべた。

 小豆の営業スマイルとは違う、まともな笑みだ。


「それにしても、図書室に用があるなんて、珍しいわね」


 小豆が首を傾げると、純はにやり、と笑った。


「まあね。それより聞いてよ。この頃、なんか私色々ツイててさ」

「へぇ。先週はツイてないー、なんて嘆いてたじゃない。一体どうしたのよ?」

「実はさ、いい先輩によく効くお守りもらっちゃってね。それ以来私の運勢うなぎ登り! あぁ、こうなったらカッコいい彼氏が欲しいなぁー。土田さん、アテない?」

「ないわよ、残念ながらね」


 小豆はこめかみを押さえてため息をつく。


「そっか、残念。じゃ、また明日ね」


 純は楽しそうに一回転すると、軽い足音を立てて階段を降りていった。


「なんか、底抜けに明るい子だったな。なあ、土田」

「ええ、そうね。でも、ちょっと前まではあんなに元気な子じゃなかったのよ」

「えっ?」


 驚いて小豆の方を見ると、小豆は真剣な眼で下り階段を見ていた。


「急に様子が変わって、どうしたのかと思ってたけれど、まさかお守りのせいだとはね」

「なんかの儀式をやったってことか?」

「いえ、ただ気の持ちようが変わっただけだと思うわ。でも、お守りをくれたっていう『いい先輩』が気になるわね」

「どういうことだ?」

「心当たりがあるのよ。二つ上の先輩なんだけどね、余計なお節介の好きな人がいるの」

「知り合いなのか?」

「ええ、近所でね、よく兄にくっついてたわ。腰巾着というか、取り巻きというか、ね」

「兄って、お兄さんがいたのか。初耳だな」

「ええ、いるわ。今はちょっと家を出て流鏑馬やぶさめの方に住んでるの。まあ、その話はいいじゃない」


 よほど面白くないのだろう、小豆は吐き捨てるように言った。


「行きましょ。帰るのが遅くなるわ」

「え? あ、うん……」


 多分、その先輩については何をきいても答えてくれないだろう。

 小豆の小さな背中に拒否の二文字を読み取った雅紀は、努めて話題を無関係の方向に持って行った。

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