其の七

   †7†


 すぎ集落はみどり大間賀おおまが町の北部、半ば山に呑まれるような形で存在する小集落だ。あまりにも山奥で、自治体として独立しているわけでもないため、普通の地図では名前も載っていないような限界集落。

 そんな杉集落に入る、たった一本の細い山道の右側に古びた鳥居と石段がある。

 朝倉あさくらの運転する自動車――アウトドア仕様のワンボックスは、長く曲がりくねった上に急勾配の続く山道を難なく登り切ってその鳥居の前を通り過ぎた。

 その刹那、ワンボックスの車体が大きく揺れた。


「なっ……何だ!?」

八尺様はっしゃくさまね。かもねぎしょってやってきたとでも思ってんのよ」


 後部座席に並んで座っていた雅紀まさき小豆あずきは反射的に窓から顔を背けた。

 一瞬だが、窓ガラスの向こうに白い影が見えた気がした。

 車内から急速に色彩が失われていく。

 これまで八尺様が現れた時と同じ兆候ちょうこうだ。


「おい、神さんのやしろってなぁ、この先でいいんだよな?」


 運転する朝倉の声も、心なしうわずっているように感じる。

 車体の揺れは一度では収まらず、二度、三度と繰り返される。


「ええ、大丈夫。神社までは一本道よ」


 と小豆。


「なあ土田つちだ。やっぱり来ない方が良かったんじゃ……?」

「だからって今更引き返すわけにはいかないわ。どういう理屈わけか知らないけど、八尺様はもう杉集落に囚われてないんだもの」


 そう言って、小豆はそんな雅紀の両肩をつかむと、正面から眼をのぞき込んだ。

 赤いオーバルフレームの向こうで吊り目がちの眼が不安げに揺れている。


「いいこと、浅井あさいくん。社についたら、後はあたしに任せて」

「任せろって言われても……」


 そんなに不安そうな眼を見せられたらそんな気になれない、そんな言葉が喉まで出かかっていたが、その前に車が止まった。


「着いたぞ、神さんの社だ」


 気が付けば、あたりは不気味なほどに静まりかえっていた。

 車体の揺れも、完全に収まっている。

 小豆が金剛鈴こんごうれいを手に、警戒しながら車を降りる。続いて、身代わりを握りしめるようにして、雅紀が。


「俺はできることも無いし、ここで待ってる。必ず戻れよ」


 朝倉は車から降りはしたものの、車体に寄りかかるようにして煙草を取り出した。


「保証はできないわ」


 小豆は短く答えると、紫煙しえんの漂いだした駐車場を後に境内へと進んでいく。

 三年前にも来たことのある集落の鎮守様の社。

 以前の雅紀はここに祭られているのがどんな神か知らなかった。

 知ってしまったいまは、それだけ緊張しながら、小豆の後について色彩のない境内を進んでいく。

 本殿の正面にしつらえられた両開きの格子戸が開き、中の燭台しょくだいに勝手に火が灯る。


「歓迎されてるみたいね。ようやく浅井くんが取れると思ってるんでしょうよ」


 小豆は一礼すると、本殿の奥に向かって金剛鈴を一打ちした。

 ちりん、という金属質の音が境内に響く。

 と、本殿の奥にわだかまっていた闇の中から、白い影が現れた。

 白いワンピース型の服をまとい、同じ色の帽子を目深にかぶった、髪の長い女。

 その女がゆっくりと雅紀たちの方へ近付いてくる。

 例の、床を滑るような動き。


「こ、こっちに来るぞ」


 うろたえる雅紀。


「顔は見ちゃだめ。とにかく浅井君は何も言わないで身代わりを差し出してればいいから」


 雅紀の返事を待たず、小豆は近づいてくる女に体を向ける。

 顔は伏せたまま、金剛鈴を打ちつつ祭文さいもんを唱える。


「かけまくもかしこ高天原たかまがはらにおわします伊左那岐大神いざなぎのおおかみ筑紫ちくし日向ひむかたちばな小戸おどのあわぎはら御禊みそぎはらたまいしときせる祓戸はらえど大神おおかみたち、諸々もろもろ禍事まがごとつみけがれらむをば、はらたまきよたまえとまおことこしせとかしこかしこみもまおす……」



 ちりん。


 一度だけ鳴らされた金剛鈴の音はおとといの激しい調子とは正反対の、静かで澄んだ音だった。


「杉の神に霧雨きりさめの巫女がお頼み白し上げます。この方未だ現世に務むることございましてお迎え頂くに及ばざれば、形代を以ちて代理と為し、くお帰り下されますようお頼み白します……」


 ちりん。


 再び金剛鈴を鳴らす。

 雅紀は顔を伏せたまま、身代わりを両手で捧げ持つようにして差し出した。


 ちりん。


 多少の間を置いてもう一度。


 ちりん。


 雅紀の隣で小豆が息を呑む気配がした。

 ぞわり、と背筋に怖気が走る。

 女が、八尺様が、雅紀の前に立った。

 眼で見なくても、気配で分かる。

 見るな、顔を上げるな、と本能が警鐘けいしょうを鳴らす。

 雅紀はだんだんと息苦しくなってきた。

 緊張と恐怖が胸を締め付け、心臓の鼓動を早める。

 危険が、指呼しこの距離に迫っている。

 逃げたい。

 逃げたい。

 逃げたい。

 逃げたい。

 逃げたい。

 逃げたい。

 逃げたい。

 逃げたい。

 逃げたい。

 逃げたい。

 逃げ――


 ちりん。


 金剛鈴の音が雅紀の恐怖を和らげた。

 次の瞬間、小豆の罵声ばせいが社に響き渡る。


「あんたなんかにこいつは勿体ないから諦めろ、ってんの! 仮にも神様だってんなら少しは恥を知りなさいよ、このクソババア――っ!!」


 それがきいたのか、ふ、と八尺様の気配が消えた。

 さきほどまで雅紀の手の上にはったはずの身代わり。そのフェルトの感触もわずかな重みもなくなっている。

 今まで色調補正されたように薄暗かった周囲が、明るくなった。

 どこからともなく子供の遊ぶ声が聞こえてくる。


「……助かった、のか?」

「ええ、なんとか」


 隣で小豆がうなずく。


「これで、浅井くんが八尺様あのおんなに狙われることは無くなったはずよ」


 見れば、小豆の額には玉の汗が浮かんでいた。

 暑さが理由でないことは雅紀にも容易にわかる。


「さて、浅井くんが見つかって面倒ごとになる前に帰りましょ」


 引き返そうとして、小豆が体勢を崩す。

 雅紀はとっさに手を出して小豆を支えた。


「大丈夫か、土田?」

「少しバランスを崩しただけ、大丈夫よ」

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