其の二

   †2†


「それから、どうなったんだよ?」


 磯野一也いそのかずやにきかれて、雅紀まさきは首を振った。


「気付いたら朝でさ、仏間の真ん中で寝てた。どうも夢見てたみたいなんだな。んで、その日の内に叔父さんの車に乗せられて帰ってきた」

「はぁん、変な話だな。ネット怪談じゃあるまいし」

「だろ。しかも、もう集落に近づくな、なんて言われてさ」


 あの夏からもう三年が経とうとしていた。

 中一だった当時は背が低く、色白だった雅紀だが、中学の三年間で多少は背も伸び、家から高校まで自転車で約四十分という環境のおかげで色白もマシになってきた。

 中学時代には特にいじっていなかった髪をえりにかかるかかからないかというあたりまで伸ばし、微妙に脱色している。

 当然、立派な校則違反なのだが、よほど派手にやらなければ生活指導からとやかく言われることはない。


 今は五月の末。

 一学期の中間試験が終わった後の、熱気と湿気と、それから弛緩しかんしきった気だるい空気が教室を支配していた。

 雅紀の通う大徳だいとく学院高校は仏教系の中高一貫校で、一応は共学である。だが、男女で教室のある階が違うため、今この教室には汗くさい男子生徒のワイシャツ姿しかない。


「それ以来、オレはすぎ集落には近づいてないんだ。まあ、行く理由もないし」

「でも、それってお年玉がもらえないってことだろ? 小遣いのやりくり大変じゃなかったか?」

「大変だったさ、そりゃあ。でも、おかげでお年玉みたいな臨時収入に頼らない経済観念が身についた」

「そりゃあよーござんした」


 一也はつまらなそうに紙パックのいちご牛乳にストローを挿した。

 柔道部の中でも上背うわぜいのある一也が甘いいちご牛乳を飲んでいるのはなんだか不似合いな気もするが、本人に言わせれば「部活で体力を使う分、血糖値を維持しておきたい」のだそうだ。

 しかし、やはり角刈りで体格のがっしりした一也がいちご牛乳をうまそうに飲んでいる姿はどこか滑稽こっけいなのだった。


「……そういえば、ネット怪談の八尺様はっしゃくさまってどういうオチだったっけ?」

「あー、なんだっけな。ちょっと待て、今調べる」


 雅紀はズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、ネットの検索サイトに接続した。

 だが、検索欄に『八尺様』と入れたところで廊下からスリッパの足音が聞こえてきた。

 おそらくは、担任教師の朝倉あさくらだろう。


「やべ、スマホ隠せ」


 一也に言われるまでもなく、雅紀はスマートフォンをポケットに戻した。一也もいちご牛乳を一気に飲み干し、紙パックをつぶして鞄にしまう。

 それとほぼ同時に、朝倉が不景気な顔で教室に入ってきた。


「起立――注目、礼!」


 日直が号令をかけて、帰りのホームルームが始まった。といっても、試験明けで早上がりというだけで他に大した連絡事項もなく、五分もしない内にホームルームは終わる。

 その号令の後、雅紀は体育館へ行く一也と別れ、学食へ向かった。

 自販機の前で何を飲もうか考えていると、背後に人が立つ気配があった。


「お先にどうぞ」


 雅紀が振り向くと、一人の女子生徒が立っていた。

 少し癖のある、栗色の髪をツインテールにまとめており、赤いオーバルフレームの向こうから気の強そうな目がのぞいている。

 セーラー服のタイを見れば、雅紀と同じ一年生だ。


「どうも」


 彼女は短く答えると、雅紀の脇に立って自販機に硬貨を投げ入れ、オレンジジュースを買った。

 取り出し口からジュースの紙パックを取った彼女はそのまま立ち去ろうとしたが、何かに気付いたかのように足を止めた。


「あんた、ツかれてるわね」

「えっ……?」

かれてる、って言ったのよ。いえ、狙われてると言った方が正しいかしら? ともかく気をつけなさい。あなたがったのはただのモノじゃない。死にたくなかったら何か伝手つてを探すべきね」


 冷たい空気が流れた、ような気がした。


「何なんだよ、それ。ワケわからないこと言うなよ」

「まあ、普通はそういう反応でしょうね。けれどきっと、すぐに分かるわ」


 彼女は顔だけを雅紀の方に向けて口元を笑みの形に歪めた。


「魔女の予言は当たるのよ」


 そう言い捨てて、彼女は去っていく。

 残された雅紀は彼女が残した言葉の意味を探っていた。

 彼女は一体、何を言っていた?

 憑かれてるとか、行き遭ったとか……。

 まるで、雅紀が三年前に八尺様と遭遇したのを知っているかのような物言いだった。

 だが、そんなことはあり得ない。

 あり得るはずがないのだ。

 雅紀が三年前の話をしたのは今日が初めてだ。

 杉集落の出身なら三年前のことを知っていてもおかしくないかもしれないが、あの集落で雅紀と同年代なのは伊織いおりだけで、その伊織はバスケの強い大間賀おおまが高校に進学したはずだ。

 朴念仁ぼくねんじんというかバスケばかといった感の強い伊織に、今の女子生徒と接点があったとは思えないし、仮にあったとしても、集落の内情まで話すほどの間柄になるとはとうてい思えない。

 事実、伊織は何度か雅紀の家へ遊びに来て、隣家の少女とも仲良くなっていたが、八尺様のことは一言も話さなかった。

 あの様子なら他の人にも話したことはないだろう。

 だとすると、なぜ彼女は八尺様のことを知っているようなことを言ったのか。

 雅紀は首を傾げながら、美術室へ足を向けた。


 雅紀の入っている美術部は部員のほぼ全員が幽霊部員という、やる気のない部だ。それでいて県の美術展では毎年何人かが作品を出展し、そして一人か二人は入選するという、世にも奇妙な部活だった。

 そのせいか「心霊スポット」などと陰口を叩かれる美術室は、校舎三階の西端にある。

 案の定、その室内に部員の姿はなく、雅紀の担任で美術部の顧問でもある朝倉が相変わらず不景気な顔で絵筆を執っていた。

 後ろからのぞいてみると、鴉天狗からすてんぐの面をつけた男が水干すいかん姿の少年と木剣ぼっけんを手に向き合っているという構図だ。

 視線に気付いたのか、朝倉が絵筆を置いて顔を上げた。


「おう、来たか。ま、適当にやっとけ」

「天狗ですか?」

「いや、鬼一法眼きいちほうげんだ。源義経の兵法の師匠。たぶんに伝説上の人物だけどな」

「へぇ……」


 雅紀がしげしげと絵に見入っていると、朝倉は器用に口だけで笑った。


「伝説ついでに、義経の師匠は鞍馬山くらまやまの大天狗だって伝説もあるから天狗面を着けてみた。――まあ、真偽はともかく、鞍馬寺くらまでらに預けられてた頃に山の民とのつながりができて、それが後々の一ノ谷や屋島での奇襲作戦につながってるのは間違いないだろうな」

「そっちの伝説なら知ってます。小学校にあった伝記まんがで読みました」

「あぁ、昔は通説や俗説もふんだんに取り込んだ、読み物としておもしろい伝記がよく出てたからな」


 それで話は途切れた。

 その時、雅紀は朝倉の実家が寺だったことを思い出した。

 もちろん、あの女子生徒が言っていたことを鵜呑うのみにしたわけではない。だが、鵜呑みにしないまでも、奇妙な偶然を感じないではなかった。

 これが彼女の言っていた「伝手」になるかはわからない。だが、相談はしてみるべきだろう。


「あの、先生。先生の実家はお寺……ですよね?」

「ん? ああ、そうだぞ。両親からは教師なんかさっさと辞めて坊主になれって言われてるんだが、坊主って稼業もしがらみが多くてな」

「じゃあ、あの……土地神、みたいなものって知りませんか?」

「土地神? 神さんは神社の領分だろ。寺は仏さんだ」

「いえ、そうじゃなくて、八尺様とかいう……」


 雅紀がその名前を出したとたん、朝倉の手が止まった。

 今度は体ごと雅紀の方に向き直り、探るような眼で雅紀の顔を見上げた。


「……ネット怪談だの都市伝説だの、それこそ俺の領分じゃねぇ。そんなもんにウツツ抜かしてる暇があったらカノジョでも作って青春しろ」

「都市伝説じゃありません。俺、三年前に行き遭ったんです」

「行き遭った? どうせハロウィンのコスプレ行列だろ」

「真剣です。……三年前、杉にある祖父の家で」

「杉……杉か。あそこの神さんに行き遭ったっていうんだな?」


 朝倉は真剣な顔で考える素振りを見せた。


「身長が三メートルくらいある、大きな女でした」

「それが本当なら……いや、集落の出口はミチキリしてあるはずだ。いくら神さんでも出てくることはできんだろう」

「でも、さっき下で変な女子に言われたんです。昔行き遭ったモノに狙われてるって」

「ほほう、狙われてる、か」


 朝倉は少し考えた後、納得したようにうなづいた。


「きっとお前には神さんがつけた印みたいなもんがあるんだろ。その女子にはそれが見えたんだな。お前らくらいの年頃だと時々いるんだ。中途半端に霊視能力を目覚めさせた霊感少女モドキ」


 にべもない言い方だった。


「まあ、気にすんな。どうせ何もない。何かあっても俺んとこに来るなよ。俺は別に法力ほうりきなんか持ってないからな」


 右手を軽く振ると、朝倉は絵に向き直って再び絵筆を動かし始めた。

 それで話は終わり、ということのようだった。

 雅紀は仕方なく手近な机に荷物を降ろすと、自分用に確保しておいた画板を引っ張り出した。

 ケント紙をセットすると、棚の方からアグリッパの石膏像を取り出して机の上に置く。

 石膏像のデッサンは部長から一年生に与えられた課題である。

 もっとも、当の部長は四月の上旬に幾日か顔を出したきり、まったく姿を見ていないのだが。


 雅紀がデッサンを始めてから一時間ほどが経った頃、ポケットの中でスマートフォンが振動した。

 そっと画面を確認すると、伊織からの着信だった。

 ちらり、と朝倉の方を伺うが、絵に集中しているようで気付いた風はない。

 雅紀はそっと席を立つと廊下に出ると、スマートフォンを取り出して着信ボタンを押した。


「兄貴、部活はいいのかよ?」

『それどころじゃないんだ。祖父ちゃんが死んだらしい』

「えっ……? そうか、そうなのか」


 祖父は昨年の暮れから体調を崩して入院していた。もう長くないという話は聞いていたが、祖父が面会を拒否しているということで、雅紀は見舞いにも行けなかった。

 その祖父が、ついに死んだ。


『で、お前はほら、八尺様に行き遭っただろ。だから、祖父ちゃんのことは本当は知らせちゃだめなんだが……』

「どうしてだよ? 別にいいだろ」

『それが、良くないんだよ。とりあえず、今から病院行くから切るぞ。細かい話はまた後で』

「わかった、じゃあ、今日……は忙しいよな。明日あたり霧雨きりさめ駅前のコンビニで合流しよう」

『オッケ、わかった。じゃあ、またな』


 それで、電話は切れた。

 スマートフォンをポケットにしまって美術室に戻ると、石膏像を棚に戻した。なんとなくデッサンを続ける気にはならなかったのだ。


「帰んのか。何があったのかはきかんが、学校休むんならちゃんと申請しとけよ」


 朝倉がなんでもないという風で口を開いた。


「聴いてたんですか?」

「聞こえたんだ、バカ。聞かれたくなかったらもっと離れたところで話せ。まあ、緊急の用事だったようだし、普段の態度に免じて見逃してやる。部活指導は勤務時間外だしな」


 要するに、面倒だから聞かなかったことにしてくれるらしい。

 雅紀は朝倉に手を合わせると荷物を抱えて美術室を後にした。

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