霧雨市怪奇譚 霧雨の巫女

野崎昭彦

第一章 八尺様

其の一

    †1†


 油蝉あぶらぜみ。つくつく法師。にいにい蝉。

 競い合うような蝉時雨に山鳩の鳴き声がかぶる。

 もう少しして遠く見える妙義みょうぎの山塊に夕陽がかかる頃にはひぐらしも鳴き出すだろう。

 すぎ集落は、そんな自然に包まれた田舎の集落だった。

 浅井雅紀あさいまさきは祖父の家の縁側に腰掛け、昼の内に集落のあちこちで描いたスケッチを見比べていた。

 このスケッチを元に課題の風景画を描こうというのが、雅紀が中学の夏休みを利用してこの集落に来た理由の一つだった。


 集落の奥に建つ大きな屋敷。

 雑貨屋の店先で丸くなる猫。

 神社の境内で車座くるまざになってゲームを楽しむ子供たち。

 昔ながらの案山子かかしが立つ畑。

 さぎが餌をついばむ田圃たんぼ


 そうした、市街地ではちょっと見られない風景の数々がこの田舎には多数残されていた。

 昼下がりというには少し遅く、夕方というには少し早い時間帯。

 熱気をはらんだ風が吹き抜け、頬をやんわりと撫でる。


「暑……」


 雅紀は額の汗を拭った。

 と、その時、不意にあたりが暗くなった。

 かげったのかと思ったが、空を見上げても太陽を覆うような雲は見えない。

 それに、暗くなったとはいっても明暗ははっきりしている。例えるなら、昼間に撮った写真を色調補正でむりやり暗くしたような、そんな違和感のある暗さだった。

 そんな世界の中に突然、目の覚めるような白が飛び込んできた。

 雅紀がそっちに目を向けると、庭と道路をへだてる垣根の向こう、道路側に一人の女が立っていた。白い、つばの広い帽子を身につけた、髪の長い女。胸元までしか見えていないが、帽子と同様、白い服を着ている。

 それだけでも十分目を引くに足る姿だったが、それよりも特徴的だったのは、人並みを大きく外れたその上背うわぜいだった。

 生け垣の高さは大人よりも頭一つ大きいくらい。そこから上に胸元まで見えているのだから、台などを使っていないとすれば、その身長は三メートル近いはずだ。

 その上、彼女は全体が補正された写真の中で、そこだけ選択範囲から外したかのように陽光を照り返している。

 雅紀は思わず息を呑んだ。

 帽子を目深にかぶり、少しうつむくようにしているので女の顔はよく見えない。


「あの、なんですか?」


 雅紀がたずねると、女の口元がわずかに動いた。口角がつり上がる。

 笑み。

 本来なら敵意がないことを表すはずのその表情は、しかし今はひどくいびつに感じられた。

 不気味な色彩のせいかもしれない。

 あるいは女が無言だからかもしれない。

 雅紀はなんとなく、このままここにいてはいけないような気がしてきた。

 気がつけば、あれほどにやかましかった蝉の声がぴたりと止まっている。

 異様な静けさに満ちた庭先で、雅紀は一人女とにらみ合っていた。


 逃げられない。


 逃げようと動いた瞬間、襲われる。

 そんな予感がした。

 いや、それは予感と呼ぶべきではないのかもしれない。

 本能が異変を察知して、危機を感知して、体を麻痺まひさせたのだ。

 ともあれ。

 逃げようとして逃げられず、雅紀は女と対峙し続けていた。


 どれほどの時間が経ったのか……。

 思い出したように、一匹の蝉が鳴き出した。

 それを皮切りに、次々と蝉が鳴き出す。

 世界に明るさが戻ってくる。

 いつの間にか、女の姿は見えなくなっていた。


「蚊取り、ここに置いとくぞ」


 家の奥から従兄いとこ伊織いおりが出てきて、火のついた蚊取り線香を雅紀のそばに置いた。


「あ、ああ。サンキュ、兄貴」


 雅紀は庭の方を見たまま、短く答えた。

 雅紀と伊織は同い年だ。

 だが、背が高く小学校ではミニバス、中学でもバスケ部で活躍している伊織に対し、雅紀は美術部所属の完全なインドア系で、背も低い。

 そのせいでもないだろうが、二人の間では伊織が兄、雅紀が弟という力関係ヒエラルヒーが自然と生まれていた。


「なあ、兄貴。さっきあの生け垣の向こうに女の人がいたんだけど、知り合い?」


 雅紀はふ、と伊織にたずねてみた。

 何気ない様子を装ってはみたが、女のことをたずねた途端に伊織の顔から血の気が引いた。

 どうも、何か思い当たる節があるらしい。


「おいおい、見間違いだろ? あの生け垣、高さどんくらいあると思ってるんだよ?」

「いや、高さって言っても。別に踏み台とか使えばのぞけるだろ?」

「そういう問題じゃないんだよ。……それに、この集落には間違ってもそんなマネをする人はいない。とりあえず、祖父ちゃん呼んでくるからお前は仏間で待ってろ」


 伊織はそう言うと、玄関に回って外に出た。


「いいな、絶対に仏間から出るなよ」


 雅紀はどうしようか考えたが、もし祖父が戻ってきた時に仏間にいないと怒られるのがオチなので、おとなしく仏間に引き下がることにした。

 仏間は居間の隣にある六畳間で、縁側に面した辺が障子、居間と寝室に面した辺が襖で区切られている。最後の辺はふつうの壁で、うるし塗りの仏壇が置かれている。

 雅紀はその前に座ると、スケッチブックを広げながら祖父を待った。

 しばらくすると、庭の方から人の話し声が近づいてきた。

 一人は伊織、もう一人は祖父のようだが、他にさらにもう一人、男がいるようだった。

 居間越しに見える玄関の引き戸が開いて、伊織と祖父、それに見慣れない中年の男が家に上がってきた。神社の神主か何かのような、時代がかった服装をしている。


「雅紀、まだ無事だったか」


 祖父が開口一番にそう言った。


「まだ無事ってどういうことだよ? それに、その人は?」

「うむ、こちらは宮司ぐうじさんだ。村の鎮守ちんじゅ様を預かっている」

「グージさん?」

「ほら、集落の外れに神社があるだろ。あそこの宮司さんだよ。お前が見たものから守ってくださる」

「見たものって、別におかしなものは見てないぞ」


 雅紀は首を傾げたが、伊織が肩を掴んだ。


「お前は外の人間だからピンと来ないかもしれないが、さっき見たって言ってたあれは危険なものなんだ」


 そう言われても、雅紀は今一つ納得できないでいた。

 と、それまで黙っていた宮司さんが口を開いた。


「雅紀くん、君が見たのはこの集落に古くから伝わる――そう、土地神のようなものなんだ。ただし、あまり良い神とは言えないけれどね」


 そう言って、思案するように腕を組んだ。


「祟り神……ってやつですか?」


 雅紀は以前にアニメ映画で出てきた祟り神を思い出した。その映画では半透明な巨人の姿で、森の木々をなぎ倒しながら禁忌を犯した狩人を追っていた。


「ああ、そういう言い方もあるね。とりあえず、我々はあれを八尺様はっしゃくさまと呼んでいる。というのも、約八尺もの身長をした女性の姿で現れることが多いからなんだ。八尺というのはメートル法に換算すると三メートル弱、ちょうど君が見たという女もそのくらいの背丈だったはずだ」


 雅紀は生け垣の向こうに立つ女の姿を思い出した。


「八尺様は十数年に一度現れては集落の若い男を取っていく。そこに何かの法則性があるのか、それとも完全にランダムなのかは分からないが、狙われるのは決まって若い男だ」


 宮司さんは言葉を続けながら、仏壇の前に座った。


「取っていくって?」

「神様の世界ヘ連れて行かれる……まあ、要するに死んでしまうわけだ。君が見たのはそういう厄介な神なんだ」


 話をしている間にも、伊織が手際よく襖や障子を閉め、部屋の四隅に塩を盛っていく。


「あの、その神の呪いって、何か助かる方法はないんですか?」

「明確に助かる方法はないよ。我々にできるのは八尺様の目をごまかして集落の外に逃がすくらいだ」


 宮司さんの答えは明瞭めいりょうで。

 それがために、雅紀にもそれが一時しのぎの方法でしかないことが容易に理解できた。


「この集落に入る道は未だに一本しかない。その理由が分かるかい?」


 祖父や伊織が慌ただしく供物くもつ灯明とうみょうの用意をしている間に、宮司さんがたずねた。


「えっと、周囲が山で道が造れないからですか?」

「だったらトンネルでも掘ればいいだろう? もちろん、いわゆる限界集落というヤツで、わざわざお金と時間をかけてトンネルを掘っても元を取れるほどの交通量が見込めないというのは立派な理由の一つだろう。けれど、もっと大事な理由があるんだ」

「大事な理由?」

「あの道はミチキリしてあるから、八尺様は集落を出て行くことができないのさ」


 また、知らない単語が出てきた。

 雅紀は『ミチキリ』の意味をきこうとしたが、ちょうど儀式の準備が整ったため、そこで会話は中断してしまった。


「雅紀、ここで座ってろ」


 祖父が雅紀を仏間の中央に座らせる。

 すう、と呼吸を整えて、二ゆう二拍手一揖。

 にわかには信じられない話だったが、祖父も、宮司さんも決して悪ふざけをしているようには見えない。それどころか、厳しい顔をして粛々と儀式を進めていく。

 宮司さんが何度か祝詞のりとを奉じ、さかきを振るだけの簡素な儀式ではあったが、その簡素さが却って応急的な対処であることを印象づけ、雅紀の心にぽつぽつと不安を植え付けていく。

 儀式が終わり、宮司さんが退出すると、入れ替わるように伊織が部屋に入ってきた。手にはラップでくるんだおにぎりが数個と湯飲みが乗ったお盆、それに薬缶やかんを持っている。


「雅紀、おにぎりと麦茶、用意しとくからな。絶対に外出るんじゃないぞ。絶対だからな」

「いいかい、雅紀くん。君には今からこの部屋で過ごしてもらう。朝になるまで、決して部屋から出てはいけない。出れば間違いなく、あれに連れて行かれてしまうだろう」


 伊織だけでなく、部屋の外から宮司さんも口添えしてくる。そこまで強く言われると、雅紀としても反論しようという気にはなれなかった。


「……わ、わかった」


 雅紀が渋々うなづくと、伊織は仏壇に一礼して部屋を出ていった。

 襖が閉まると、とたんに静寂が押し寄せてきた。

 庭の方からかすかに聞こえてくる蝉の鳴き声――かなかなかな、という蜩のもの悲しい声が増えていた――を聞きながら、雅紀は仏壇の前に座り、スケッチブックを開いた。

 この集落に残された様々な情景が、今はどこか空々しく、忌まわしいものに思えた。

 雨粒が屋根を叩くぽつぽつという音が聞こえだしたかと思うと、それは急激に激しくなった。遠雷がきこえている。夕立だ。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 所在なくぼんやりとしていた雅紀の耳に、雨音に混じって小さな音が聞こえ始めた。

 かりかりというその音は、ちょうど猫が柱で爪を研ぐ時の音に似ている。

 だが、祖父は猫を飼っていないし、このあたりで野良猫を見た記憶もない。

 にも関わらず、その音は確かに聞こえている。

 雅紀は顔を巡らせて音の出所を探った。


 かりかり、かりかり、かりかり。


 音はかなり下の方……ほぼ床のあたりから聞こえてくる。

 雅紀はその正体を探ろうと姿勢を低くして、そして気づいた。

 部屋の隅に盛られた塩の山。

 それが上の方から徐々に黒ずんできていた。


「!?」


 雅紀は思わず立ち上がったが、それでどうなるというものでもない。

 音は相変わらず、続いている。


「な、なんなんだよ、これ……?」


 どう反応していいかわからず、雅紀はそのまま、部屋の真ん中に立ち尽くしていた。

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