ルームウェア

 三月二十八日 日曜日 十九時五十分――


 喫茶メアリの閉店時間が迫っていた。安賀多は真琴が帰った後、新たな客が誰も来なかった店内で一人で何時間も思案していた。正確に言えば、明日のスイーツの用意をして新しく焼く分だけ焼いて、冷ましたりしている合間合間に、ふと思い出しているようだった。


 ――オリハラレイコが臭いことには変わりない。


 真琴の言葉に、今日何度目になるか、安賀多の手が止まる。


「いかんな。早く帰って寝よう」


 安賀多は最後の拭き仕事だけ終えて、コートを羽織ろうとした。その時、スマートフォンに着信がある。しかも、ビデオ通話だった。


「折原玲子……」


 安賀多はスマートフォンの画面に表示された名前とアイコンを見て、息を飲んだ。一瞬、画面の前で指が止まりながら、応答のボタンをタップする。


『あ……すみません、突然』

 画面に玲子が映し出される。自宅であろう、背景の白い壁にはピンクのお花が描かれた可愛らしい壁掛け時計とカレンダーらしきものが見える。玲子は部屋着なのか、いやにモコモコしたパステルカラーのルームウェアに身を包んでいる。メイクは落とされ、スッピンなのかは安賀多には判別はつかなかったが、とても自然体な美人であった。風呂上りの香りすらしてきそうであった。

 安賀多はニヤケそうになるのを抑えながら、目に力を入れた。

「こんばんは」

『こんばんは』

「どうされましたか?」

『あの……嫌な音がして』


 安賀多は、おや、と真面目な顔になる。

「玲子さん、念のためこの通話を記録してもいいですか? もしその音を録音できれば、専門家に尋ねることもできますし。最悪の場合でも――ね」

 安賀多はそこまで言ってから言葉を濁した。

『あ、はい。お願いします』

 玲子は画面越しにお辞儀をした。

「ところで、不気味な音というのはいつもこの時間帯に?」

『ええ……』

「それは不安ですね」

 そこまで言って、安賀多はふと思い出したような顔をする。

「そういえば、玲子さんは遅い時には二十時くらいまで飯島家にいらっしゃるんでしたっけ」

『はい。食事をご一緒したりします』

「その後、帰宅されるのは何時ごろでしょう?」

『大体夜の九時過ぎです』

「ははあ、ということは一時間くらい掛けて通ってらっしゃるんですね」

『はい』


 安賀多はしきりに頷く。

「では、その夜は変な音は?」

『あ……そういえば聞こえません』

「なるほど。つまり、二十時から二十一時の間だけ聞こえる……と」

『――あ、また』

「え……」


 玲子の泣きそうな、不安げな表情に、安賀多は思わずビデオ通話だというのに身を乗り出してしまう。音に集中する。すると――


 ボーンボーンボーンボーン――


 シンと静まり返っていた店内に、あの古時計のくぐもった音が鳴り響いた。


「うわぁっ」

『きゃあ!?』

 安賀多の叫び声に、驚いた玲子がさらに画面の向こう側で叫び、画面から消えた。画面には、丸い照明と淡い木目の天井が映しだされている。ガタ、ゴトと音がして、画面がグルッと動きながら、玲子が現れる。

『すみません、びっくりしちゃって』

「い、いえ。こちらこそ――」


 喫茶メアリの壁に掛かっている古時計を睨んでから、安賀多は咳払いをした。


「ごほん、ところでそちらのお住まいは、お一人で?」

『はい。大学卒業して、職場に近い部屋に引っ越したんですけど、一年もたずに辞めてしまって。引っ越すのもお金がかかるので、ずっとここに』

 ――お金がかかる、という言葉に安賀多は少し眉を動かしたが、玲子には気づかれなかったようだった。玲子は寂しそうに笑った。

『昔から、何事も長続きしなくて……家事代行サービスは新しいことを学びながら、いろんなお宅や地域に行けるので飽きずに――天職だと思ってます』

「飯島さんのお宅以外にも?」

『ええ。固定でこの日と指名していただけるお宅はまだ少ないですけど』

「ほう」

『立花さんなんかは、持ち前のおおらかさで、指名たくさんいただいていて』

「タチバナさん――」

 安賀多はその名前を口にしながら記憶を探っている様子だった。

「ああ、あのアポロを捕まえた方ですね」


 立花恵里のアポロ捕獲劇は見事であった。人間の腕が二本入る余裕のなさそうな室外機と壁の隙間に挟まったロシアンブルーのアポロを反対側から押し出し、飛び出したところを持っていたカーディガンで投網よろしく捕獲してしまった。アポロは最初驚いていたが、恵里が抱き上げて優しく撫でているとすぐに落ち着いてしまった。


「あの方も飯島さん宅から指名を?」

『はい、ベテランさんです。確か……十年くらい前から働いてらっしゃるって』

「ははあ」

『だからか、立花さんのスケジュールって売れっ子のタレントさんみたいに分刻みなんです』

「そいつはすごい」


 安賀多は、包容力のある立花恵里が笑顔でテキパキと働く姿を思い描いたのか、安心したように微笑んだ。

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