フィナンシェ
三月二十七日 土曜日 十七時十五分――
見事なアポロ捕獲劇で魅せた立花恵里は、まるで母親と接しているかのように安心する笑顔で、「十八時から、次の仕事があるので!」と早々に帰って行った。
人騒がせなアポロは、ガラガラガラ、と自動給餌器から手動で餌を出してもらい、アイランドキッチン内で久方ぶりの食事と水分に夢中になっている様子だった。その横で愛翔がしゃがみこんで、嬉しそうに「おいしい? おいしい?」と聞いては一人で頷いている。
安賀多は広いリビングダイニングに置かれた、大きなL字型ソファに案内されるがまま、じっと座っていた。壁一面のガラス窓から見える庭をボーッと眺めているようにも見える。真琴は、案内された場所に留まらずにフラフラと室内を歩きまわっていた。
彼らを案内した玲子は、「すみません、軽くゴミだけ出してきます」とアイランドキッチンの脇にある勝手口から出て行き、数分で戻ってきた。
その間、位置が変わっていたのは真琴だけであった。
真琴は真っ白に塗られた壁飾られた、三枚のアートパネルを興味深そうに眺めていた。部屋の中央から、そして、それぞれの絵を至近距離から、落ち着きなくフラフラと。真琴が、一番左にある独特な色遣いが特徴的な油絵を見ていると、部屋の入口から優梨愛が入ってきた。
優梨愛は真琴の隣に立つと、気さくに話しかけた。
「面白いでしょ、その絵」
「なんですか、これ」
「なんだと思う?」
「うーん」
優梨愛に聞かれて、真琴は改めてマジマジと絵を観察した。赤く乱雑に塗られたところに、筆を適当に押し付けたのではないかと思えるような不規則な青い線や黄色い丸。白く飛び散った絵具。
「有名な作品なんですか?」
なんとなく興味を持ったのか、安賀多がソファから優梨愛に声を掛ける。優梨愛は、首を横に振って、笑った。
「全然。父が描いた絵なんですよ、これ」
その言葉に安賀多は目に見えて落胆したように肩を落とした。優梨愛は笑いながら、ソファに座ってから続けた。
「本人もなにかよく分かってないみたいです。絵画教室の体験みたいなので描かせてもらっただけなんで。でも味があるでしょ?」
絵の前に取り残された真琴は動かずに、ただ「ふーん」と言った。
玲子がトレイに紅茶とフィナンシェを持ってくると、優梨愛は手を叩く。
「そうだ、玲子さん。あれ交換しといたら? 連絡先」
「え?」
「ほら。最近ちょっと夜中、怖いって言ってたじゃない?」
「ああ……でも、そんなことで」
「聞いてくださいよ、ペット探偵さん」
優梨愛は安賀多に向かって話しかける。「『ペット探偵』では……」と否定しようとしたが、優梨愛は気にせずに話し続けた。
「玲子さん、最近夜中に奇妙な鳴き声で起こされるんだって」
「えー? どんなのですか?」
話に食いついて質問してきたのは、いつの間にソファに座っていたのか、真琴だった。優梨愛は、それがね、と声を落とした。怪談話のように。
「牛の声なのよ」
「うし……」
「夜、急に『モー』って」
「それは怖いですね」
女子高生とキャッキャッ楽しそうに、優梨愛は会話を続けている。
安賀多は、少し恥ずかしそうに顔を俯かせている玲子に、極力落ち着いた声音で話しかけた。
「それが事実であれ、もしなにかあったらご連絡いただけたら」
「ありがとうございます」
「怖くて眠れないなんて、おつらいでしょう」
「はい……あの、ではこっちの連絡先でもいいですか?」
そう言って、玲子がスマートフォンを出して示したのは、最近世間にだいぶ浸透しているコミュニケーションツールとなったアプリケーションであった。テキストでメッセージを送ったり、スタンプ、音声通話、ビデオ通話ができる。さらに、グループでコミュニケーションもとれる優れものである。
安賀多は自分のスマートフォンを取り出して、快諾した。
「良かったわね、玲子さん」
優梨愛はニコニコしながらそう言って、紅茶をすすった。その横で、すでに自分の分のフィナンシェを食べつくした真琴は、妙に大人な笑顔を見せている安賀多の分のフィナンシェをこれみよがしに口に入れた。
そんなことを意に介する様子もなく、安賀多は「僕でよければ」と微笑んだ。
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