ロシアンブルー
三月二十七日 土曜日 十六時四十分――
「『ロシアンブルーの名前の由来は、その色です』」
少女はスマートフォンを片手に、前を歩く男に聞こえるように、なにかを読み上げている。男――安賀多はそれを聞いているようでもなく、ただ周囲を注意深く見ながら閑静な住宅街を歩いている。女子高生と二人で。
ここは依頼人である折原玲子が、週に三回、家事代行サービスで通う飯島家のある住宅街だ。日本人なら何度か耳にするであろう、有数の『お金持ちエリア』である住宅街に黒いワイシャツに黒のスリムなパンツ、グレーのスプリングコートの男――陽の光の下では三十半ばくらいに見える――と制服姿の少女が二人で歩いているのはなかなかに目立つ。
だが、それを二人が気にしている様子はない。
太陽の下だと若干、画面が見にくいのか、少女はスマートフォンの上に手のひらをかざしながら続ける。
「『ベルベットのようなアッシュブルーの毛並み。ショートヘアでありながら、豊かな深い色合いは、見ている者を飽きさせません。また、ロシアンブルーの特徴といえば、その瞳。エメラルドグリーンの澄んだ両目は、美しいシルエットに浮かび上がり、クールな印象を与えます』」
少女は、そこまで一息に読み上げてから、安賀多を見る。安賀多は相変わらず、排水溝やら、家の庭とは思えない小さな林の中などを覗き込んでいる。駅から、飯島家周辺を中心に約三十分ほど、ずっとこの調子だ。その様子に笑みを浮かべながら、少女はさらに続ける。
「『クールな印象を持たれるロシアンブルーですが、性格は犬のようだといわれています。愛情が深く、飼い主に忠誠心を持ち、従順であるのです。また、ロシアンブルーはボイスレスキャットと呼ばれ、めったに鳴かず、マンションなどでの飼育に向いていると言われています。その歴史は――』」
「おい、真琴」
真琴と呼ばれた少女は、言葉を切って、安賀多を見る。ちょうどT字路に差し掛かったところで、安賀多は立ち止まって後ろからついて来ている真琴を見ていた。
真琴は、返事をせずに安賀多に近づいた。ただじっと、次の言葉を待っているようだ。真琴がようやくT字路まで来たところで、安賀多は自分より頭一つ低いところにある真琴の目を見てたしなめるように言う。
「もういいから、それ」
「ここからが面白いのに」
「それより、なんでこんな依頼を受ける気になったんだよ」
玲子の依頼を受けた張本人であるはずの安賀多が、真琴に向かって恨み節のようなことを言う。真琴は先ほどポニーテールにした姿のまま、嬉しそうに首を傾げた。
「うーん」
「どうせ受けるなら、もっと警察が絡んだり、新聞に載ったりするやつがいいだろ」
「不謹慎」
「俺は事件専門の探偵なの。ペット探偵じゃないの」
「いいじゃない。どうせ仕事ないんだし」
「お前なあ」
安賀多は、清潔感のある自身の短髪をガシガシと掻いた。その少し荒々しい仕草を真琴は上目遣いでじっと見つめたまま、安賀多に言う。
「それにちょっと事件になると思うんだけどなぁ」
「え?」
「あ! 九ちゃん、あっちあっち」
「お前、そろそろさ。その『九ちゃん』呼び止めろよ」
真琴はそれには答えずに、T字路を折れて住宅街を進んでいく。
「おい、真琴! おい。そっちは――」
自分の声を無視して、どんどん進んでいく真琴を安賀多は追いかける。閉鎖的な壁や生垣だらけの住宅が立ち並ぶ道を進み、真琴はすっと右に折れる。そこにあったのは白い塀に囲まれた三階建てのモダンな建物だった。外にあるインターホンから玄関ドアまで続く、玄関ポーチは解放感があり、来訪者を拒絶しているような雰囲気はない。安賀多はようやく追いついて、インターホンと表札、ポストが一体型となった門柱の前に立つ真琴を見た。表札には『Iijima』と書いてあった。
「飯島」
「おい、真琴」
「九ちゃん、見て」
真琴の指が飯島家に向けられる。白い真四角に近い家。インターホンから右手に駐車場があり、車は不在だ。左手には生垣のようなものに隠れているが、庭があるようだ。「どれ」、と安賀多が口を開こうとした時、すでに真琴が駐車場の方へ歩いていた。
「おい」
依頼人はあくまで、折原玲子。飯島家に入ることは許されていないのだ。安賀多は真琴の腕を掴もうとしたが、するりと逃げられてしまう。
「ねえ、九ちゃん」
空の駐車場の奥、壁際に室外機が置いてあった。
「猫ってね、臆病でちょっとしたことで逃げちゃうんだけど、臆病だからすぐに遠くへは行けないんだって。だから――言いにくかったんだけど、家の近くを探すより、家自体を探した方が良かったんだよねぇ」
真琴は後ろ手に指を組みながら、室外機の近くまで行くと、ぴたっと足を止めた。そして室外機の真上から、やあ、くらいの軽い感じでなにかに話しかけた。
「にゃあ」
室外機と壁の隙間から、黄色がかったエメラルドグリーンの瞳が光っていた。
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