三人分

昨年 九月十八日 金曜日 十七時十分――


 無断で時間を延長してしまったことを優梨愛は軽く謝っただけだった。玲子はソファで未だにお昼寝をしている愛翔をチラッと見てから、ダイニングテーブルの反対側に座る優梨愛に答えた。


「マナトくん、とてもいい子でした」

「そう? よかった」

「では……私はこれで」

 玲子が立とうとすると、優梨愛が椅子に座ったまま、右手でそれを制する。

「なにか?」

「ねえ、あなた」

「はい」

「お料理は得意?」

「人並みには……」

「そう、追加で払うからさ、晩御飯もお願いできない?」

 優梨愛の提案に、玲子は少し思案気にした後、口を開いた。


「先ほど愛翔くんのオヤツで冷蔵庫を確認させてもらいました。作れるのは、キノコとベーコンのパスタと、玉ねぎのスープくらいですがいいですか?」

「いい、いい。じゅーぶん! 三人分お願い」

 玲子の答えに優梨愛は口をめいっぱい広げて笑顔を作った。安堵した様子で、優梨愛も立ち上がった。一瞬、玲子と距離が近くなる。優梨愛から漂う、やさしい石鹸の香りが玲子に届いた。玲子は表情を変えることなく、少しだけ下がった。

「じゃあ、私、シャワー浴びて部屋着に着替えてくるから。あと、よろしく」

 そう言って、優梨愛はバタバタと上の階へと消えて行った。


 玲子は部屋が夕日色に染まっていく中で、キッチンに向かった。冷蔵庫を開けて、材料を準備する。一つ一つの棚を開けて鍋の場所、包丁の位置、調味料の置き場などを確認していく。皿とカトラリーの引き出しを見つけてから、玲子は頷き、腕まくりをした。


 小花柄の淡いブルーのワンピースに白のモコモコのカーディガンを着て、優梨愛がサッパリした様子で下の階に降りてくると、リビングダイニングにはすでに玉ねぎスープのコンソメの良い香りがしていた。優梨愛の姿を見つけて、玲子が声を掛ける。

「あとは、パスタは十五分もあればできますけど、お食事は何時ごろですか?」

 そう言いながら、玲子は自分のスマートフォンを確認する。現在、十八時前だ。


「じゃあ、もうお願い」


 優梨愛の言葉に、玲子は頷いてから、すでに一度沸騰させていた鍋を火に掛けた。すぐにグツグツとする鍋に、三人分のスパゲティを投入する。切っておいた具材をフライパンで一気に炒めて、茹で上がったスパゲティと混ぜ合わせてから三人分に盛り付けた。大人二人前と子ども一人前だ。スープもカップに注いで、テーブルに並べる。


 玲子は、ソファに座っている家の住人たちに目を遣る。


 カーテンがいつの間にか閉められて、部屋は電気の明かりで煌々と照らされている。キッチンと反対側にあるソファでは、すっかり目覚めた愛翔と優梨愛が並んでテレビを見ていた。厳密にいえば、テレビで流れている子ども向け番組を見ているのは愛翔で、その隣で優梨愛はスマートフォンをいじっていた。


「できました」

 改めて声を掛けると、優梨愛は「はーい」と軽く返事をして、テレビを消した。


「美味しそー。折原さん、料理上手じゃないー」

 優梨愛は屈託のない笑顔を浮かべながら、素直に賛辞を述べた。玲子はその言葉に微笑み、愛翔が椅子に座るのを手伝った。この家には幼児用のチェアは存在しないようだった。玲子はエプロンを外してから優梨愛にお辞儀をした。


「それでは、私はこれで」

「あ、折原さん」

「はい」

「食べて行ってよ」

「はい?」

「時間まだいいでしょ? どうせ旦那遅いしさ。人多い方が美味しいじゃん」

「……でも、三人分しか……」

「私と愛翔とー、折原さんの分」

 優梨愛は悪びれる風でもなく、そう言ってのけた。玲子は優梨愛をマジマジと見つめてから、小さく吐きながら困ったように微笑んだ。

「ねー、お願い?」

 優梨愛は小首を傾げる。そして、息子に向かって続けた。

「ほら、愛翔も折原さんと一緒に食べたいよね? お願いって言ってごらん?」

 愛翔は母親をジッと見た後に、玲子に言った。

「おねがい」


 二人に見つめられて、玲子は、「今回だけですよ」と食卓に同席した。


「良かったー。私、本当、人がいないとダメでー」

 そう言いながら優梨愛は、ずっと玲子に話しかけながら食事をした。愛翔は、たまに母親に零すななどと叱責されながら、終始無言で食べ続けた。玲子は、優梨愛の言葉に短く返事をしながら、食事を終えた。


 玲子が再びエプロンを身に着けて食後の洗い物をしていると、背後でまた音がした。


 ガラガラガラッ。


 ロシアンブルーのアポロが、自動給餌器の前で待機していたのか、出てきたキャットフードに食いついている。水を止め、布巾で手を拭いてから玲子は再びスマートフォンを確認する。二十時。玲子は顔をしかめながら、ため息を抑えつつ、ソファでくつろぐ優梨愛に声を掛けた。優梨愛の横では愛翔が真剣な顔で、テレビを見ている。


「それでは、私はこれで失礼します」

「あ、もう帰るの?」

「はい」

「そっか。折原さん、今日はありがとうねー。またお願い」


 玲子は、あっけらかんと言う優梨愛に笑顔を作ってから、お辞儀をした。


「ばいばい」

 ソファから愛翔が顔をヒョコッと出して、挨拶をした。玲子は、じゃあね、と手を振った。優梨愛は玲子を玄関まで見送りに立った。


「本当、こんなに愛翔が懐く人初めて。本当、折原さん、またお願い」


 玲子は曖昧に微笑み、またお辞儀をした。その時、玄関のドアが開いた。

 三十前後の男性が立っていた。仕立ての良いスーツ姿に、セットされた髪、眼鏡の奥の瞳は優し気に映る。男性は、初対面の人間への最低限への礼儀か、夜中の客に対して愛想よく柔らかい笑顔を作った。


「お客さんかな? 初めまして」


 折原玲子も、飯島聡いいじま さとると同じように笑顔で挨拶した。

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