探偵は女子高生と契約を交わす

くまで企画

その探偵は女子高生と契約を交わす

プロローグ

喫茶メアリ

三月二十七日 土曜日 十三時三十分――


 カランコロン。


 軽やかな鈴の音とともに、喫茶メアリの扉が開き、春の風が吹き込んでくる。店内には強いコーヒー豆の香りが満ちており、来訪者の鼻腔をくすぐった。


「いらっしゃいませ」


 磨りガラスのはめられた木製の扉に手を掛けた客とおぼしき女性に、店主はカウンターから声を掛ける。カウンターにはサイフォンが三つ、壁にはコーヒーカップとソーサーが並んでいる。火にかけられたステンレスのポットが、コツコツと小さな音を立てている。ポットはよく磨かれており、暗めの照明の下で光り輝いている。


 客の姿が一人もないガランとした、だが不思議と落ち着く店内を手のひらで指し示しながら、店主は女性に続けて声を掛ける。


「お好きな席へどうぞ」


 店主の言葉に、女性は店内を見回してからカウンターの反対の壁際にある臙脂えんじ色のソファ席に腰を下ろした。そもそも迷うほどの席数でもない。喫茶メアリには、カウンターのハイチェア四席と、入り口近くの一人席、奥に二人席が二セットあるだけなのだ。それでも、それぞれ椅子とテーブルがすべて異なるので、どの椅子に座るか迷う客はいるだろう。これは人間観察を趣味としている店主のちょっとした趣向を凝らした実験であるともいえる。


 女性が席に着いたところで、店主はメニューとおしぼり、氷水をトレイに載せてきた。ここで店主は女性を観察するように、持ってきたものを、ゆっくりとテーブルに置きながらメニューの説明をする。


「本日のおすすめは、エチオピア産の酸味のあるコーヒー豆。スイーツは、ファーブルトンです」


 メニューを受け取りながら頷く女性は、ファーブルトン――と呟く。おそらく耳馴染みのない言葉であったのだろう。

 女性は二十代前半といったところだが、とても落ち着いた雰囲気をまとっている。茶の混じった髪の毛は頭頂部で分けられ、肩ほどの長さの美しいストレートだ。サラサラしているのに、動く度にまとまって揺れ、清潔感すら感じられる。若さの眩しい肌に負けない明るい黄色のブラウスに白いスカートも、とてもよく似合っている。メニューを眺める顔には、整った各パーツがほどよいバランスで収まっており、いわゆる美人である。


「あの、『季節のブレンド』とそのスイーツを」

 流行りの赤い口紅の塗られた唇を動かして、女性は店主の顔を見る。店主は奥二重の切れ長の目を細め、かしこまりました、と言ってカウンターの向こうへと戻って行った。


 店主はサイフォンを用意する。自家焙煎した『春ブレンド』のコーヒーの粉を入れてから一回目、二回目の攪拌かくはんを経て、じっくりと時間を掛けてコーヒーを抽出していく。その間に店主は、カウンターの壁をじっと眺める。


 花柄、ボタニカル、カラフル、エレガント、伝統的なアンティークから、和柄まで様々なテイストのカップが並んでいる。これから客に合うものを選ぶのが店主の楽しみの一つでもある。


「お待たせいたしました」

「いい香り」


 ゴールドのレリーフと大理石調の深い緑のボーンチャイナのカップに注がれたコーヒーは、淹れたてならではの至高の香りを立てている。女性は砂糖もミルクも入れずに、カップに口をつけた。


「美味しい」


 女性は、細いフォークで一口大に切られたファーブルトンなる焼き菓子を口に運ぶ。同じくボーンチャイナの真っ白なお皿に飾り付けられたファーブルトンは、『ブルターニュのおかゆ』を意味するフランスのブルターニュ地方の伝統菓子だ。もっちりとした生地は、堅焼きプリンのようであり、中に入った大きなプルーンがアクセントになっている。ほのかに香る洋酒が大人の味だ。


 ボーンボーン……。


 しばらくして、漆喰の壁に掛けられたアンティークのゼンマイ式の時計が、十四時であることを告げる。店主はフラスコとロートを洗い終え、チラッと店の扉を見る。


「ご馳走様でした。とても美味しかったです」

 女性がカウンターの向かいにあるソファ席から、店主に声を掛ける。店主は空になったお皿を下げながら、整えられた口ひげに囲まれた薄い唇をさらに薄くした。

「あの、実は……」

 言い淀みながら、女性は右の耳にサラサラの髪を掛ける。店主は落ち着いた低い声で女性の言葉をつなげる。

「依頼に来られたんですね」

「やっぱり……?」

 ハッと女性は顔を店主に向け、その顔を凝視しながら、言葉を探るようにゆっくりいう。店主は、笑いを含んだ声音で言う。

「口コミを見てきたんでしょう?」

 その言葉通り、女性はインターネットの口コミを見てやって来た。喫茶メアリは外観からではパッと喫茶店であると分かりにくい。看板すら出ていないので、その情報がなければ、存在にすら気づけなかっただろう。

「ええ、ふふふ」

 つられてか、女性も口元を両手で覆いながら笑う。


 店主は、黒のワイシャツから伸びた両腕をカウンターに置いた。


「ようこそ、喫茶メアリ――改め、探偵事務所アガタへ」

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