それは約束

初めて「暑かった」という声に

彼女は反応した

いつものは器の底だけを見ているような

ラーメンの食べっぷりなのに

今日は少しだけ顔をあげて

そちらに首を、ほんのすこし、傾けた


たまに、ある

誰よりも一番早く出社して

ゴミを回収し、用務員さんが通る道に置いておく

軽く動線のみ掃除機をかけて

寒い日は暖房を

暑い日は冷房を

休憩室のお菓子や

冷蔵庫にある飲み物や食べ物をチェックして

リクエストボックスの中身を整理する


ルーティンが終われば

自分の席に戻り、パソコンを起動する

彼女の「おはようございます」を聞いたことがない

みな「お化けだよね、ほとんど」なんていう

ちゃんと挨拶があれば彼女の口は動いているし

耳を集中すれば、声も聞こえる


初めて、朝のこと

「げ」と昔の自分は思っていた

愛想なし、返事なし、地味で、猫背で

定時で帰り、朝早く来て

しゃべったことのない彼女と二人きりは勘弁して欲しかった

でも、掃除をして、整理して、身の回りを整える

当たり前のことをするだけの人が

声は小さいし、誰とも話さないし

社内メッセージには返事くれるけど

本当に、ただの人だと思う

お化けなんかじゃない


夏が近くなるにつれ

日も長くなってきた


年も重ねて

彼女の一日に疑問はない

ただ、たまに誰かの声に反応して顔をあげる

何度もあったことだ

外のことや季節のこと、二つ

そして会社の外を見ないこと

でも「暑かった」「寒かった」「晴れ」「雨」

「人が多くて」「熱中症さあ」

「電車で会った赤ん坊が可愛くてさあ!」

彼女の手は止まる

止まって数秒、目が潤んでいるように見えた

また再開されるキーボードの音


仕事をしていれば小休憩に入るヤツも多い

席を立ち、おのおの怒られない程度に出て行く

彼女はしない

休憩のような仕草は見せる

手が止まるからだ

そうして鞄が置いてあるだろう

身を屈めてタンブラーを取り出すのだ

一口、二口、休憩、三口、背もたれに寄りかかる

四口、五口、大きく息を吐いて吸う

こんな人間らしい人がお化けであるもんか

必死に仕事をする人が、人間じゃないなんて


窓際近くの課のまとめ役が

暑くなってくるとブラインドを閉める

外が涼しくなれば開けることもある

春秋は当たり前なんだけど

彼女は、絶対に、外を見ない

綺麗な夕焼けを見ようとしない

目をそらし

必死に、必死に見ないようにしている

パソコンの画面の首を少しだけ回し

体の向きを変えると

瞳に夕陽がうつらないようにする


最初は夕方が嫌いなのかと思ったけど

嫌いなら嫌いで、見ようとしないのは

おかしいと思った

でも、声をかけることはできない

なんにも関わりがないんだから


ある夕方

急なサーバーメンテナスで無理やり帰されたことがあった

仕事にもならん、営業も帰る場所なし

急なお達しは喜びと残業お持ち帰り悲劇に変わった

みんな帰って行く、みな出て行く

彼女はどうだ

おずおずと帰り支度をしていた

下を向いてできるだけ前を見ずに

早足で会社を出ようとして

……追いかけた

出入り口は、一日中光りが当たる場所

夕陽はオレンジよりも濃い血のようだった

その中に彼女は居て、彼女は空を見上げて

何かを諦めたようだった

でも何かを決意したように見えたし

柔らかく微笑んだようにも見えた

最後に見た背中は子どもが喜ぶような

うきうきとした姿だった


陽の中に帰って行く背中を見ていた

もう会えないと頭の中で声がした

好きだったのかも知れない、と思った


……みんな、好き勝手に言った

失踪やら自殺したやら田舎に帰ったとか

「お化けだから成仏したんじゃない?」と

つまらないことを言うヤツもいた


オレはそうは思わない

彼女は帰ったんだ

あの夕陽の中に

溶けるようにして帰った

笑っていた

寄る辺をなくした彼女は帰りたい場所に帰ったんだ

よかった

きっと彼女は夕陽に思い入れがあって

やっと夕陽を見られたんだ

帰れたんだ、本当によかった

……

……

「」

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