結ノ章

 そうして今、一唯翔の前にハンバードがいる。

 それはもう死体だった。

 えりかの存在を感知して、半ば自動的に動き出し、そうあるように動いただけの人形だった。

 彼はもう、敵ではない。

「あれですか? さゆりさん」

「はい。あれです。あの大穴の中にいまえりかはいるでしょう」

地獄の蓋は開いていた。

 吹き飛ばされた小さな神社の跡地は完全に漆黒にのまれている。

 大穴を一唯翔は覗き込む。

 なるほど、すさまじいまでのプレッシャーだった。

「いきますか?」

「はい」

「ええ、では。お気をつけて」

 短いやり取りだった。

 おおよその話や段取りは既に頭に入れてある。

 穴の中に、真っ黒で真っ白な手はない。

 既にえりかは呑まれたあとである。助けるために躊躇している時間はない。

 ので、

「………!」

 一唯翔は躊躇なくその大穴に乗り込んだ。



 さゆりは彼の背中を見送った。

 本来、彼に背負わせていいような話ではないのに、びっくりするくらい頷いてくれた。

「えりか……」

 彼女を思う。

 自分の中に生まれた少女。

 自分とは違う誰か。

 彼女に対する感情も、自分自身の決断も既に決まっている。

 決めるだけの時間があった。

 決めたいと思っていた。

 ハンバードと向き直る。

「さ、わたくしたちもいきましょう」

 どうあれまもなく決着はつく。



 轟、と渦巻く死の中だった。

 赤と黒の渦の中。

 一唯翔は歩いている。

 どじょうの上を歩いていた。

 いつかえりかに恩を返したいといっていた連中に今回のことを話したら、引き受けてくれた。めっちゃいい奴らやん。

 死の波の中を歩き続ける。

 やがて地獄の底にたどり着いた。

 大きいような小さいような核。

 どじょうたちはこれ以上いけないようだ。

 だから。

 そこに飛び込んだ。



 一瞬で飛びそうになる。

 ぐるぐると渦巻く、悪意が、憎悪が、

 自分自身がシャッフルされていく感覚。

 己はどこに行けるのかさえも曖昧にこなごなとけていき。

「まったく、しっかりするんだ一唯翔」

 バチンと音をたてるように意識が統一される。

「……父さん」

「やあ、一唯翔。大きくなったね。ついさっき、えりかが呑まれていったから頭を抱えてしまっていたんだけど、そうか。お前が来てくれたのか」

「ああ」

「えりかちゃんを助けてくれるかい?」

「そのためにここに来た」

「そうか。あんまり時間もなさそうだ。じゃあがんばれよ一唯翔。父親らしいことをしてやれないやつですまなかったな」

「別に。じゃあ行ってくるよ」

「ああ」

 意識は完全にしっかりした。

 ならばあとは、先に進むだけだ。

 一唯翔は父に背を向けて、さらに下に沈んでいく。



「なんだ。さゆりさんも来ていたのかい?」

「ええ、久しぶりね。その節は何とお礼を言っていいか」

「いいさ。きみと俺とのなかじゃないか。ところでプロポーズの返事聞かせてくれないか?」

 さゆりは、ごめんなさいと航に伝えた。

 航は納得したように、そうか。と答えた。

「残念! うん。でも振られては仕方がないね! じゃあ、俺の仕事も終わりかな?」

「ええ。今までありがとう。赤羽さん」

 そういって、さゆりはハンバードを連れて消えた。

 赤羽航は困ったように頭を掻いて。

「ま、振られちゃったらしょうがないね」

 実にさっぱりと気持ちよく言って消えた。

 どうやら、彼が行く先は地獄ではないようである。



 初めて生まれた時、そこは誰かの中だった。

 選ばれた誰かの、明白な空白の中に生まれた不安定な意思。

 本来であれば泡のように生まれ、霞のように消えゆくはずのもの。

 さらに今、自分の宿る主は巫女として捧げられることが確定した命。

 自分がなぜ、ここにいるのか、考えたことはない。

 考える必要もなく終わるはず。

 だから、何も考えることはなく、ただそこにあるだけだった。

 何も感じることはなかった。・・・・・・・・・・・・・

 空白が真っ白になっただけだったのだ。

 はずだった。

 はずだったのに、巫女としての役目はなくなった。

 別に怒りはない。失望もない。そういった感情を持ち得てはない。

 ただ困惑があった。

 どうしてこのようなことをするのか、わからなかった。

 まあ、どうでもいいことだった。

 ただ、このままここにいる時間が伸びるだけだった。

 ハンバードという男は、非道な男で随分なものをみたけれど、自分たちには今のところ危害を与える気はないようだったから、まあ、いいかとした。怖いけど。

 したが、だんだんと、少しずつ、確かな不安が自身のうちに、紙にこぼしたインクのように広がっていくのを感じていた。

 自分がこれからどうなるのか。

 考えないわけにはいかないほどの時間があった。

 ある日、どうして村を逃げ出したのかを聞いたことがあった。

 答えは、やっぱりよくわからなかった。

 ハンバードは長い時間の中で、何か良くないものをたしかに作り上げていた。

 じわじわと、白いカンバスの隅を蝕むように染まる何かがあった。

 そんな時、その実験は行われた。

 肉体から魂を解き放つといわれて、要するに消えるのかと思ったけれど、違った。

 宿主と分離れるのだと聞いた。

 恐ろしいと思った。

 訳が分からなかった。

 ずっと、さゆりの中にいた『自分』ともつかない自分が一つの人間になることには不安しかなかった。

 不安で蝕まれる彼女の胸中に宿主は気付かない。

 その日、その時が来た。

 バチバチと感電するようだった。

 痛くなって、怖くなって。膝を抱えて、目を瞑って、雷を川がる子供のように。

 そうして、ぎゅっと目を瞑っていた。


 次に目覚めた時、随分と年月が経ってしまっていた。

 知ってるけど、知らない土地。

 慣れない言葉。

 慣れない躯。

 慣れない日々。

 でも、さゆりちゃんは楽しそうで。

 だから、不安だなんて言えなくて。

 頑張って、自分の躯を動かせるようになって、頑張って、言葉を手繰れるようになって。

 そのうち、彼女は男の人と仲良くなって。

 この人と彼女が結婚して、そうしたら、自分を誰がみてくれるの?

 わたしを誰が守ってくれるの?

 わからない……。

 明日には、この不安がなくなってしまえば、いいのに。


 ある日、その男の子と出逢った。

 航の子供で、今はもうなかなか会わないらしい。

 抱きしめたら、暖かだった。

 きみは、わたしと同じだねって、勝手にそう思った。

 でも、わたしより年下で、まだなにも知らなくて、

 すこしだけ、強く抱きしめた。

 そうしてまもなく、わたしはまた深い眠りに落ちた。


 その少年を知っていた。

 魂の色を憶えていた。

 もう、随分立派になった。

 そしてすごく優しくなってた。

 そして、ちゃんと強くなってた。

 かれとわたしは似てなくて、さゆりちゃんがいないと所在がなくなってしまう自分と、ちゃんと普通に生きている彼は全然違くて。

 だから焦がれて、嫉妬して、勝手に裏切られた気になっていた。

 でもそんなみっともないところを見せたくなくて。

 記憶がないのなんて変な嘘までついて。

 そして彼は優しくて。

 幽霊みたいな日々は、どこか胸が弾むような気がして。

 不安以外の感情を憶えた。

 彼と遊園地に行ったとき、嬉しかった。

 それから、さゆりと再会して、正直どんな話をすればいいかわからなかったのに、思いのほかちゃんと話せて。

 そして……そして……。

 ……いつのまにか、わたしはまた終わろうとしている。



 記憶が流れてくる。

 目の前にえりかがいる。

 一唯翔は手を伸ばす。

 まるで濁流のようだ。

 それは熱湯の濁流。その身をやく熱き渦。

 けれどもしかし、あんなものを見せられて―――というよりそんなものを見なくたって、帰るわけにはいかない。

「えりか!」

 一唯翔は叫んだ。その声に反応して、えりかは振り返る。

 手を伸ばした。

 彼女は、そっちにはいけないの。と首を振るった。

 そんなことは知らなかった。

 お前はどうしたいんだ。

 このまま、本当に終わってしまって……死んでしまってもいいのか。

 えりかの目じりに涙が浮かぶ。

 わからないの! 引き裂くような悲痛な叫び。

 もういや! 何も考えたくない! 

 叫び少年。

 悲痛な眼差してそれを見つめる少女。

 やがて少年は、強く手を伸ばした。

 その手を取れば、もしかしたら帰れるかもしれない、あの不安で楽しい現実の、生きていた日々に。

 お前はどうしたいんだ。

 二度目の問いかけ。

 わからない、わからない。わからない

 なのに、どうしてか。えりかはその手を伸ばした。

 不安な日々、怖い日々、どうしようもなく早く終わってくれることに期待していたところに、どうして戻りたいのか。

 それは、その理由を知りたいと思っているから。

 そしてそれは、

「それは、きみがちゃんと、生きたいって思っているからだろう」

 少年はその手を掴んだ。

 暖かい手だった。いつか彼を抱きしめた時より。いつか彼と握手したときより。

 それは暖かい手だった。

 ああ。

 嗚呼。

 今度は少年が少女を抱きしめる。 

 確かにそこには体が合った。

 躯をつなぎ合わせたものでも、幽体の者でもない。

 そうか、これをたしかに感じたかったのか。

 暖かな彼を抱きしめて、少女は深く目を閉じた。



 昇っていく二人。

 まっくろでまっしろな手はそんなことを赦さない。

 勢いよく、二人を追いかけてくる。

 その刹那。

 二人とすれ違う二人があった。

 その女性ひとはすれ違いざまに確かに微笑んでいた。

 わたしはもう十分生きたから。

 今度は貴女が楽しんで。

 わたしは、この人と行きます。

 そう、穏やかに。

 まるで、母のように微笑んだ。

「ありがとう! さゆりさん!」

 一唯翔はそうお礼を言った。

 さゆりさんは嬉しそうだった。

 さゆりとハンバードはまっくろでまっしろな手につかまる。

 さゆりはハンバードを抱きしめた。

 もう魂の残っていない、その躯を抱きしめた。

「あなた」

 二人の間に、どのような時間が流れ、どのような会話があり、どのような心のやり取りがあったのか。

 えりかの不安と期待を、一唯翔とえりかの二人だけが知ったように。

 さゆりとハンバードの間にあったなにかを知るのは二人だけなのかもしれない。

 壊れかけのものを一つ。確かにそこにあるものを一つ。

 いつかあった空白は、既に埋められていた。

 まっくろでまっしろな手は二人を吞み込んで、閉じられた。


 そこは神社址。

 開けた土地の上。地面の上。

 二人がいる。

 少年と少女が寝転がっている。

 確かにその手は繋がれていた。

 とんとん、とんとん。

 鼓動がふたつ、なっている。


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