天ノ章

 月日は遷ろう。

 風が吹いている。

 暖かい風だ。

 年中寒い極寒のロシアにおいて、夏が近づいている証だった。

 故郷も大概寒かったけれど、ここほどではなかった。

 まあ、あまり遠出する性質ではないからモスクワのほうまで行ったりすることもないし、基本的にこの90年近く、ずっと森の中にいたからここ以外の気候なんて、ほとんど知る由もないのだけれど。

 気が付けば、ハンバードとの日々も随分と長くなってしまった。

 二人だけの静かな暮らしも、長くなった。

 静かで、孤独で、変わらない時間。

 巫女として生贄になる予定だった自分が常人よりもよっぽど長生きすることになるなんて考えもしなかった。

 黒いフードをかぶり、森から外に出る。

 ふもとにある小さな町の商店街に出かけて、食糧やら生活用品やらを買い込みに行くのだ。

 かれこれ結構な年数そうしている。

 小さな町の人々の間では魔女さん、何ていう風にひっそりと呼ばれている。

 90年近く、風貌が変わらない、森の奥に住む者なんて、そう呼ぶ以外にないだろうけれど。

 ありがたいのは、町の人々に自分を狩る気がないところである。彼ら彼女らがやさしい気性なのもあるが、自分が長い時間の中で彼らの当たり前になったのも大きいだろう。ありがたい話である。

 そんなこんなで商店街に行くと、なんだか今日はいつもとは異なる雰囲気で満ちていた。

 なんというか、幸福な喧騒に満ちている。

 行きつけの店に行って何かあったんですかという旨を聞いた。

「あら、あなた! 間が悪かったわね~~! 今さっきまで演奏会があったのよ!」

「演奏会?」

「ええ! 何でももうすぐモスクワでコンサートをするっている有名な楽団の方らしいんだけど……町の集会所にある古びたオルガンあるでしょ! あれを引き出したかと思えば、もうそれはそれは素晴らしい演奏でね! みんなで楽しく歌って踊ってお祭り騒ぎ!  で、そのまま風のようにその方、去っていってしまったのよ! 素敵だったわ~、楽しかったわ~」

 とのこと。

 さゆりは、ふーん。といった感じでいつも通りに買い物を済ませる。

 音楽、といってもたまに町の中で聞くようなものしかさゆりは知らない。

ハンバードは基本、芸術とされるものに興味を持たず必要ともしていなかったし、自分もまたそうだったのだ。

 だから彼女がいつものように買い物を済ませて、帰路につくことにした。

 森のなか、それなりに荒く舗装もされていない道ではあるけれど長いこと歩いてきたので別に問題はなく歩いて行ける。

 行けるのだが、今日は問題があった。

 道がふさがれている。

 自動車が一台、思いっきり道を塞いでいた。

 どうもタイヤがよろしくない角度で砂利に埋まってしまった様子。

 このまま脇を素通りして帰ろうかとさゆりが考えた時だった。

「そこなレディ! 申し訳ないが一緒に車を押してはくれまいか! いやお礼はするとも!俺のコンサートチケットでどうだろう!」

 男はそういって車からひらりと舞い降りた。

 なんと驚いたことに日本人である。

 それなりに上等そうなグレーのスーツの黒い革靴。ネクタイは閉めていない。

 ワックスでクシュクシュになった髪が風に揺れている。

 その髪の間から見える、やさし気な面持ちが何とも印象的だった。

「おや! きみはもしかして森の魔女さんかな? 町の人たちが君のことを話していたよ。とても美人なアジア人だって聞いていたけれど、きみ日本人だな?」

「……貴方は?」

 割と警戒心マックスな声音で言ったというのに男はまるで呑気な口調で自己紹介をした。

「これは失敬。まずは俺から名乗らねばね」

 男は実に気障ったらしいやつで。だからそんな口調で実に一方的に自分の名前を名乗った。

「赤羽航、音楽家だ。どうぞよろしく」

 彼は名乗った。

 後に一唯翔の父親になる男である。



 二人して車を押し出す。

 軽い車だったらしい。すぐに彼は苦難を突破した。

「いやはや、助かったよ! どうなることかと思った!」

「……いえそれは別に構いませんですけど、なんでまたこんな辺鄙な道で立ち往生を?」

「ああ、それは簡単。きみに逢ってみたかったからさ」

 実にあっけらかんと赤羽航は答えるものだから、さゆりは思わずぽかんとしてしまった。

「だってそうだろう! 美人がいることがわかっていて会いに行かないのは音楽家の名折れだ!」

「……音楽家関係なくないですか?」

「そうかな? そうかも? そうだね!」

 変な奴だった。

「まあそんなことはいいんだ! 俺はきみに出逢えた。これはもう運命だね!」

「会いに来たんでしょう……?」

「そうともいうね! まあ運命なんてものは自分からぐいぐいいかないと手に入らないものだしこれでいいんだよ! とういうわけで、きみ――、名前聞いてなかったね? 教えてくれるかい?」

「……」

 今更かいな。と思いつつ、苦笑いしながら彼女は答える。

「さゆりです……」

「さゆりさんか、素敵な名前だね。ところで苗字は?」

「ありません。そういうモノではなかったので」

「ふむ、わけありなのかな? まあいいさ。では改めて、さゆりさんはこの後、暇?」

「……ナンパってやつですか?」

「違う……わけではないが、そうだね。きみに俺の音楽を聴いてほしいって思って。これからコンサートなんだけど、予定があるなら是非キャンセルして俺と来てほしい。きみに聴いてほしい。必ず後悔はさせない」

 さっきまで実に軟派だった男がこの台詞の後半だけはまっすぐで真摯な眼差しを見せた。

 一瞬だけのことなので気のせいかもしれない。

「なんで、わたくし・・・・を誘うのですか?」

「なんでって、うんそれは簡単で」

 男は実に不可解なことを言う。

「きみに逢えたから」

 きみの中に音楽を響かせたかったんだ。



 チャイコフスキー 序曲『1812年』

 という曲らしい。

 ロシアの作曲家の作品らしい。

 いい曲だな、と思う。

 特にそれ以上の感情はわいてこない。

 やはり自分にはその手の芸術に対する素養というものがないのかもしれない。

 おおきなコンサートホールの客席から、ステージの上で指揮棒を振るっている赤羽航をぼんやりと見つめながらそんなことを思う。

 指揮棒を振ったり、ピアノを弾いたり、忙しい人だ。

 いくつかの曲を演奏し終わり、終わったころには夜だった。

 コンサートってながいんだなーとさゆりは思う。

喝采が起きるホールからいそいそと抜け出し、外に出る。

 彼の車に乗せてもらった手前、待ち合わせの場所で大人しく待つことにした。

 モスクワの街は綺麗で、整っていた。

 少なくとも表側は、そうだし、そうでない部分を見ることはないだろう。

 噴水から吹きあがる水が街頭に照らされて、きらきらと眩しく映る。

 目を細めた向にこちらへ向かって歩いてくる赤羽航の姿が見えた。

「やあ、どうだった? 俺の演奏は」

 さゆりは思ったままのことを彼に話した。

 彼はその話を実に景気よく相槌を打ちながら聞いていた。

 あまりいい感想を言えた気がしていないけれど、彼は実に楽しげにさゆりの話を聞いていた。

「いやはや残念! 俺としてはもう少しきみの心に響く演奏をできたつもりだったんだけれど、まだまだうまくいかないな」

「わたくし、割ときついことを言った気がしますが、いいんですか?」

「うん。いいとも。悪質な批評家気取りのいうことならともかく、いまのは素直な感想だからね。いつかきみたちの満足いく演奏を聴かせたいものだ」

「きみたち……?」

 その言葉にどこか不可思議な点がある気がして、ほぼ反射的に聞き返してしまった。

 赤羽航は、うん? と少し不思議そうな顔をして。

「なにって『きみたち』でいいだろう? だってそこに魂は二つあるんだし」

 さゆりは思わず、首からぶら下げた赫い宝石を握りしめた。



 人の魂には音楽が流れている。

 それぞれの魂が鳴り響き、共鳴することでハーモニーが生まれたり、不協和音が生まれたりもする。

 そんな風なことを、赤羽航は言った、

 半ば本当なのか怪しい話ではあるけれど、そんなことを言っては自分たちも大概だという事実にぶつかる。

 さゆりは彼に赫い宝石を見せた。

「ああ、きみから流れるきみとは違う音楽の正体はこの子か。なるほどね……、なんで宝石になっているんだい?」

「それは、……」

 話していいのだろうか、こんな話。しかも今日会ったばっかりの人を相手にするべきものでは間違いなくないのだ。

 ないのだけれど。

 それでも。

「……」

 この何十年か、えりかは確かにこの手の中にあった。

 けれど、ずっと会えなかった。

 それは驚くほど寂しい日々で。

 いつかはどうにかしたかったことだった。

 なので話してみることにした。その結果何も変わらなくても別に減るものでもないが。

「……と、いうことがあったんです」

「……なるほど、それはびっくりだ」

「ええ、こんな話きいても実感なんて」

「地元じゃないか」

「――は?」



 あれよあれよという間に空港に来ていた。

 自分の荷物の少なさに些か自分でも驚いてしまう。

 しかしまあ遠くまで来たものだと自分でも思う。

 長い間。森の奥に引きこもっていたものだから、こういう今時の場所に来るといささか眩暈を憶えてしまう。

「やあ、早かったね」

 後方から赤羽航に声をかけられる。

「しかしこう、俺がいうのもなんだけども、いいのかい? 正直、きみにした話の信憑性って結構低いものだと思うよ」

 赤羽航の地元がN市で、そこでならもしかしたらえりかを目覚めさせることが出来るかもしれないという、なんとも眉唾な話であった。

「友人の伝手を辿ればできるかもしれない程度の話でしかなかったんだが……」

「構いません。藁にもすがるというものです。それに」

 空港の、開け放たれたガラス窓から外を見る。

 曇天の空模様。青空なんて見えやしないが。

「たまに、地元に戻ろうかと考えていたんです」



『間章』


 夢から醒めるとき、いつも悲鳴を上げて起きる。

 夢の中で、妻と娘がいた。

 人の心を知らぬ男にできた不出来な妻と。

 人の心を知らぬ父を持つ、出来のいい娘だった。

 取り戻すためにすべてを捧げてきた。

 時間のすべてを捧げた。

 人間の肉体を捧げた。

 その魂を捧げてきた。

 魂を取り戻すために、多くの魂を歪めてきた。

 他人の魂を傷つける行為は自身の魂すらをも傷つける行為である。

 そのたびにハンバードの魂を軋み、歪み、捩じれ、悲鳴を上げる。

 だからといって止まることはない。

 ベッドから起きてリビングに向かう。

 見知った影がそこにはないことに気が付いた。

 机の上に書置きが置いてある。

 しばらく暇をいただくという旨であった。

 これこれこういうといった理由がずいぶん長ったらしく書いてある。

 ハンバードは一瞥した後、暖炉にその紙を捨てた。

 もともと研究過程で手に入れた個体であり、その役割は失敗で終わっている。

 ただ、まだ使えるからおいているだけに過ぎなかった。

 いなくなったところでなにも変わらない。

 コーヒーを入れるためにダイニングに向かって、ハンバードは自分がコーヒーの淹れ方を忘れていることに気が付いた。



 がちりとホックが開く。

 中からは人形が出てきた。

 人形、肉で出来たそれはハンバードの工房から拝借してきたものである。

 幼い頃のさゆりの姿を模してある。

 その人形の口の中に赫い、宝石を飲ませる。

 当然。それだけで動くわけがない。

「じゃあ、頼むよ」

 赤羽航は知人二人に実に軽い口調で頼む。

 二人は実にげっそりとした顔をしていた。

「正気か? 肉体に固形化した魂を定着させるなんて、そんな簡単なことじゃないぞ。それに倫理的な問題だってある。第一、こんなことするのボクは初めてだぞ」

「……」

 文句を言っているほうが育野詩郎、赤羽航の高校からの悪友であり、オカルト好きの大学院生である。文化人類学といえば聞こえはいいが、地元のオカルトを延々ほじくり返しているだけでまともに卒業できてないような男である。

 対して黙々と準備をしているの中年の男性が大嵩隆。地元神社に住む、由緒正しい坊さんであり、100年以上前の事情を知っている数少ない人間の一人である。

 何でも大嵩家は現在のN市の天災を治める立場にある家系の一つであるという。天災を治める人々はいくつかに分かれるが、その成り立ちは一子相伝の秘密事項であり修行を終えた長子のみが知るらしい。

 今回話をして、さゆりさんとめぐり合わせたところ、心底驚いた顔をしたが同時に話をよく理解してくれた。

「ですが、よろしいのですか。わたくしはあの日、逃げ出して、その結果あなた方に多くのものを背負わせてしまった。当時はそれを理解できませんでしたが、いまならその重さを理解できます。恨まれても、文句は言えないのに」

「なに。構いませんとも。確かに自身の家計を恨む日もありましたが、しかし、こうしてあなた方にお会いできて理解できました。幼子の命と引き換えにある安寧など、早々に壊れてしまうべきであったと、最近、父になってそう理解できるようになったのです。それに、今だ迎えが来ていない魂が相手なら何とかしてあげたいのが坊主の思うところですよ」

 大嵩氏は落ち着いた口調で準備を進める。

 いくつかの札を張り、呪文を描く。

「では、始めましょう。何、ハンバード何某がしようとしたことよりかはよほど簡単なはずです。亡いモノを呼び出すわけではなく、魂も肉体もそこにあるのですから」

 斯くて、簡易的なそれではあるが儀式は始まる。

 いくつかの瞬きがあった。

 その人形は、目を覚ました。



『間章』


 魂が抉れる音がした。

 記憶の中の何かが欠けていく。

 目の前で子供が死んだ。

 子供を■すのは果たして、何度目だったか。

 男は独り、冷たい床に倒れこむ。




 さゆりとえりかはN市にある小さなアパートの一室に住んでいる。

 しばらく赤羽航に金銭面での援助を受けている。

 少し前、どうしてここまでしてくれるのかと聞いたことがある。そしたら、

「きみのことが好きだからさ!」

 なんてことを言われた。

 果たして、あれは告白というものなのだろうかとブラウン管から流される昼のバラエティを見ながら考える。

「さゆりちゃん?」

「え? あ、なに? えりか」

「考え事?」

「ええ、まあ。少しね」

「でもね、さゆりちゃん。もうすぐ時間だよ。航との待ち合わせ。合わせたい人って誰だろうね!」

 ぴょんぴょんと跳ねながら、えりかは言う。

 最初こそこの時代になれずに怖がっていることも多かったえりかだけれども、気が付けば随分と現代に適応したものだ。

 というか航に懐いたからというのもあるのだろう。

 だけれど、さゆりはどこか自分の胸にざわめきを憶えている。

 どうにも、えりかという少女がよくわからなくなってきている。

 まだ、この地がN市と呼ばれる前はさゆりとえりかは表裏一体、お互いのことを完全に理解できるつもりでいたけれど、だんだんと二人は別に人になっていくような。

 えりかの内面にわからないものが増えていてしまう感じがした。

 いや、もともと、さゆりはえりかの内面なんてわかっていなかったかのかもしれない。

 それがいいのか悪いのか、さゆりは答えを出せないでいる。



 赤羽航との待ち合わせは公園でのことだった。

 遠目から彼が何かを持っているのが視えた。

 それは、眠っている幼子だった。

「俺の子供なんだ。まだ言葉は覚えてない。疲れて眠ってしまっている」

「……」

 絶句するさゆりの横で、不思議な顔で幼子を覗き込む。

「結婚してたの?」

「いや、離婚した。彼女とはどうにもうまくいかなくてね。今は養育費を払う関係だ。でも悪い関係ではないよ。ただウマが合わなかっただけ」

「……そう」

 自分がどうしてかショックを受けている事実に、なんだか釈然としないものを感じるさゆりである。

「こいつの名前は一唯翔。男の子だ。将来は俺に似て女の子を泣かせるやつになると思うぜ。ほら、えりか。抱いてみるかい? まだ軽いよ」

「いいの?」

「いいさ。ゆっくり、やさしくね」

 ゆっくり頷いて、えりかは一唯翔を抱きしめる。

 暖かった。

「カイト、かいとくん、か……」

「ああ。おねえちゃんであるきみが守ってあげてね。さゆりさんがきみにしてあげたように」

「さゆりちゃんがわたしにしてくれたみたいに……」

「わたくし、別にそんなこと……」

「してたさ。そんなのみんな知ってるとも」

 けらけらと実にてきとうなことを抜かして赤羽航は笑う。

 そうしてひととおり愉快気に笑った後。

「この子をきみに見せたのは、俺なりに誠意を見せるためだよ、さゆりさん」

「? それってどういう」

「俺と結婚してほしいんだ」

 実に何でもないことのように、さながら朝の挨拶でもするかのように赤羽航はプロポーズをした。



『間章』


 悲鳴とともに目を覚ます。

 自分が何に叫んだのかわからない。

 手紙が来ている。

 さ■り、さ■■………

 黒く染まる思考がどうにも定まらない。

 そうだ、地下へ、地下へ行って。

「下に降りて、どうするんだい?」

 にやつく男が部屋の中にいた。

 だれだったか、記憶をあさる。

 古い、古い、さび付いた記憶の中にその男はいた。

 名前のない男だった。

「おや、自己紹介してなかったっけか? まあどうでもいいけどね。僕の名前は人間なんかに教えてもしょうがないものだし」

「……な、何を?」

「おいおいハンバード、ハンバード。たかだかその程度の魂の欠損でそこまで耄碌してしまったのかい? きみの妻子への愛はその程度のものだったのかい?」

 妻子……? そうだ、自分は妻と娘のために研究を続けてきたのだ。

「でも、ぜんっぜんうまくいかなかったんだろう? わかるよ。そんなのは見ればわかるとも。僕の教えた術式は一見見事なまでに組まれていて実現可能な物に見えるだろう? だが残念、アレは凡俗な人間風情に使える者ではないんだよ。きみは愚かだから、気が付かなかったかもしれないけれど、生きてないやつを生かすことはできても死んだ奴を生き返らせることはたとい神――ああ、この響きは実に心地が悪いね――であろうとできるわけがないんだよ。できるとしたら、それは悪魔だろうね? いやぁ、そうは思わないかい?」

 目の前の男は何者かとハンバードは思索する。

 名前のない男、初めて会ったのは1890年代のはず。

 ハンバードが今生きているのは肉体を捨て、人形に魂を移したからであり、年齢的なことを言えば既に100歳は超えている。

 確かに肉体を捨てたが魂は老いている。

 目の前の男も同じたちなのか?

 そもそも、この男はなにものなのか?

「そんなこと今更考えても仕方ないだろう。この物語における僕の出番はもう終わりなんだし、それよりきみに重要なことがあるだろう?」

「重要な、こと?」

「ああ、きみの古い革のカバンの奥底にあるメモ。僕がきみに渡した『その他の候補』のほうさ」

「貴様、一体どうして、あんなものを……」

「いま、えりかの魂は日本のあの地にある」

 名前のない男は実に端的にそう伝えた。

「土地神がどうしてもいけにえにほしいと願った上質な魂だ。地獄の蓋を開けるには十分なその魂が今は目覚めている。それだけが今は重要なんだよ。どうせこのまま研究を続けても娘を復活させることはできない。僕が紹介してやった女と君との間にできた娘。ほかに何もない君にできた唯一の希望。それを取り戻す。それだけが大事だろう?」

 そうだ。

 そうだった。

 娘、確かに自分にとって一番重要な存在。

 取り戻すための百年だった。

 そのためだけの人生だった。

「さあ、カバンを持って、日本に行くんだ。きみが拾った女もいるぜ。愚かで哀れで空虚なハンバード」

 男は家を出た。

 ボロボロの黒いコートを羽織った幽鬼のごとき男だった。

 その魂は、疵付き、捩じれ、腐れていた。

 大切な娘を取り戻すため。

 もう、思い出はおろか、顏も名前も思い出せない最愛の娘を取り戻すのだ。

 そう、もう、娘の顏も名前も思い出せない。

 なにも、残ってはいない。




 ボンヤリと空を見上げた。

 いきなりで突発的なプロポーズを思い出している。

 あんまりにもあんまりなプロポーズだったので「考えさせてください」なんて言う禁じ手を使ってしまった。

 月を見る。欠けている月を見ている。

 ふと、ため息が出た。

「結婚すればいいよ。さゆりちゃんも別に航のこと嫌いじゃないでしょ? わたしもそうだし。ほら、航ってチョベリグだし」

 とのことをえりかはいう。実際、彼女は彼のことを気に入っている様子。あと時代に染まって変な言葉を憶えようとしているのはどうかと思う。

「そんなこと言ったって……」

 そう。多分、結婚してしまったほうがいい。

 いいような気がする。赤羽航は、まあ変な人脈と性格と女性遍歴があれなだけで、音楽家としてのそれなりの稼ぎがあり、前妻とその息子の養育費を払いながら自分たちを養いつつ、それなりの生活を保持する財力もあるなんだこいつ。

 そんなひとなのだけれど、どうしてあと一歩を踏み込めないんだろう。

「えりか、ねえ、えりかはわたくしが結婚してもいいの」

「うん! いいよ! きっとそれでいいの!」

 実に明るく、えりかは答える。

 その様が実に本当に明るくて、本当に何を考えているのかわからない。

 えりかとこうして対面で話すことが出来るようになって、彼女の顔色をうかがえるようになって、びっくりするぐらい彼女のことがわからないようになった。

 昔は、さゆりとえりかは一つの身体に二つのこころ。同じ體を共有する関係上、だれよりもさゆりはえりかを知っているつもりだった。

 魂が分離わかたれて、別の人間になってしまって。初めてえりかのことがわからないという事態に陥った。当然といえば当然だ、こうして完全に別の人間になったのだから、何を考えているのかわからないのは当然だし、それでいいのだ。

 でも、もう少し何を考えてるのかを知りたいと思う。

 それが今の懸念事項の一つ。

 もう一つは、―――。

「……いいえ」

 あれこれ考えるのはよそう。

 明日、ちゃんと答えを言いに行こう。

 そうして、ちゃんと、生きていくんだ。

 そうして、さゆりは最後のまどろみへと落ちていく。

 

 翌朝、ひどく靄がかかる朝だった。

 さゆりはえりかと朝食を食べる。お茶碗一杯のご飯と焼き鮭、味噌汁、御新香。傍から見たらいっそ質素に見えるかもしれない当たり前の朝食だけれど、初めて食べた時、いつのまに食事というものはこんなにおいしくなったのかと驚いたものだ。

 食事を終えて、ふたりはアパートから外に出る。

 えりかが着いてくる必要は別になかったのだけれど、彼女もついてきたいと言い出したのだ。

 意外なことだった。えりかがあんなにどうしてもという顔をすることが。

 だから、彼女も連れていくことにした。

 その選択が正しかったのかは、その後何年もたってなおわからない。


 深く、濃い霧の中だった。

 まだ航は来ていないみたいだった。

 ボンヤリと彼を待つ。

 ひやりと肌寒い日だった。

 ふと、濃霧の奥から人影が現れる。

 それは赤羽航ではなかった。

「……ハンバード」

 幽鬼の如き男がそこにいた。



「ハンバード、どうしてきたの? こんなところ、あなたにはもう用はないはずよ」

「……………」

「ハンバード?」

 男は何も語らない。

 或いは何も語れない。

 ゆらりとその姿が揺れる。

「わたくしを連れ戻しに来たんですか?」

 男は語らず、また、さゆりに見向きもしない。

 その定まらない視線の先にはえりかがいる。

 ハンバードは右手をえりかに向けてかざした。

 かざしたまま、ぐちゃりと右手が腐れ落ちる。

 地面に落ちたその右手が黒い染みのように広がって、大きな穴を作る。

「え?」

 ずるり、という音がした。

 地面に穴が開いたのではなく。

 世界に穴が開いたように見える。

 その穴に、えりかが落ちていった。

「えりか!」

「えりか!」

 さゆりの叫び声が響く。その後間髪入れずに別の声が響いた。

 ハンバードとは違う男だった。

 赤羽航がえりかを追って、穴の中に落下していく。

 さゆりもその後を追おうとするが。

《―――――――――》

 穴の奥にあるモノの殸の前に膝をつくしかなかった。

 そのすぐそばで、呪いに犯されたハンバードは転がる。



 その術式は、どうかんがえても人間に組み上げられるものではない。

 解読すればするほどに、そうハンバードは思う。

 特定の土地の地獄の蓋を開けて、上質な魂を捧げることで死人をそちらから引きずり出す。

 死人は魂だけの存在ではなく、死したその瞬間のものなので肉体も魂もセットで完全なまま取り返せる。

 当然、生贄だけではなく、術者も相応の代償――否、罰を受ける。

 妄言としか思えない話だった。

 だが、その術式は存在し、それに見合う魂も存在した。

 そしてそれを求める男もまたここにいた。

 なんだか何もかも仕組まれているような、悪趣味で出来すぎな話だ。

 地獄の底に侵食される思考の中、そんなふうなことをハンバードは考えた。

 考えて、結局その思考事、塗りつぶされていく。



 地獄の蓋が開き、えりかと航が墜ちていく。

 まっくろでまっしろな手が穴の奥にあるのを航は見た。

 そこから流れる音楽を、聴いた。

 なるほどえりかが欲しいのか。ということが分かった。

 まったく聞くに堪えないものだった。一つの音が断続的に流れるだけのものだった。

 ずるりと一緒に落ちてくる男がいた。ハンバードという男、さゆりの話を聞いていた航にはすぐにわかった。

 ハンバードの音楽も、航は聴いた。

 聴いて、すぐに後悔した。あまりにも不協和音がひどすぎる。

 壊れたおもちゃのピアノが無理やりにへたくそなアリアを弾こうとしている。

 あまりにも切実で、どうあがいても不可能で、どこまていっても取り返しがつかない。

 壊れきった音楽で、赤羽航は耳を逸らす。

 下で待ち受ける『ソレ』が求めるのは一つの魂。

 だが。

「それはさせないな」

 航はえりかの中の音楽を聴いた。

 えりかの音楽はよく覚えている。

 初めてさゆりと出逢った時から覚えている。

 ひとりの人間から全く違う音楽は流れないからだ。

 えりかの音楽は、ひどく哀しかった。

 初めて会った時からずっとそうだった。

 ずっと大事な主旋律が欠けている、哀しい音楽だった。

 自分が惚れたのは、さゆりだった。彼女のどこか重たくて軽快で自由で縛られた矛盾だらけの音楽と綺麗な姿に惚れたのだ。

 でもそこには必ずこの子がいた。だから、えりかの不幸も航は良しとしたくなかった。

「あった」

 えりかの心臓に躊躇なく手を突っ込んで宝石を取り出した。

 えりかの魂、初めて見た時は赫かったが、今は失意の黒に塗れている。

 いったいいつからそうなのか。いつからその黒を隠していたのか。それはわからない、けれど。

「えりか、何にそんなに絶望しているかは知らないけれどね。人生、もう少し生きてみるといい。案外、いい縁があるかもだし、そう悲観的になるものではないよ。ではね」

 魂を以前、大嵩氏からもっらたご加護があるという小さな巾着袋に入れる。

 赤羽航はえりかの魂を思いっきり上空へぶん投げた。

 航の方がよかったのか、袋のご加護が効いたのか、えりかは高く高く昇っていく。

 航は小さな袋に手を振った。

 横を見るとハンバードは霧散していた。壊れかけの魂はご所望ではないらしい。

「あー、マジか。まあ仕方ないな」

 まっくろでまっしろな手に航は飲み込まれる。

 大きな穴は一時的に閉じられた。



 大穴が閉じられ、小さな袋が現れた。

 なかにえりかを感じて、さゆりはそれを抱きしめる。

 そして航がいなくなってしまったことに泣いた。

 航が命がけで助けてくれた彼女を自分が保管することをさゆりは自分に許せなかった。

 また、大事なものを失ってしまうような気がした。

 けれど、信頼できる人をさゆりは二人しか知らない。

 結局、えりかの魂を育野詩郎に、完全にふさぎ切ったわけではない大穴の管理を大嵩さんに頼んだ。

 そうして彼女はハンバードの前に立つ。

 そこにハンバードの自我が残っているかは怪しいところではある。

 彼女は彼を抱きしめた。

 そこに意思はなかった。

 彼にとって確かに残っていた目的以外、とっくに彼はなくなっていた。

 さゆりはハンバードを連れて、N市を後にした。


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