澱ノ章
深い森の奥の朝靄が冷たい。
静かな湖畔のふもとに足を踏み入れる。
静かだ。
とても静かで、人影などない。
さゆりはこの場所が好きだった。
遠い異国の見知らぬ地において、確かな安息の地だった。
湖畔の水面に顔を寄せる。
穏やかなさゆりの顏とは対照的に水面に映る貌は何とも不機嫌そうにむくれている。
「えりか、まだそんな顔をしているの?」
「……」
「もうあれから十年たったわ。もう、とっくの昔に終わった話なのに、あなたはいつまで引きづっているの?」
「……そんな簡単な話じゃないよ……巫女の儀式はわたしにとってすごく大事なことだったの……なのに」
「でもえりかは、わたしがあの村から逃げることに、賛成してくれたじゃない?」
「……むぅ、それは、確かにそうだよ。でもそれは」
「わたしを思ってのこと? ずっと、わたしが嫌がってるって知っていたから?」
「うん……」
「どうしてわたしがあんなに人柱を嫌がっていたかはわかってないのにね」
「わかんない……わかんないよ……わたし。でもわたし、わたしよりさゆりちゃんのが大事だから……」
「そう。わたしも、えりかが大事よ。だから、そう言ってくれて嬉しいわ」
本心だった。
さゆりは、えりかに対して嘘を吐きたくなかった。
その逆は、わからないけれど。
「ここは静かで、心地がいいわね」
「うん。でも、わたしハンバードの家は嫌い。あの家、呪いの気配が強すぎる。それをさらに強い呪いで押さえつけてるような、そんな厭な感じがする。まるでハンバードそのものみたい。それに、あの地下にあるのって……」
えりかは嫌悪のような、恐怖のような、そんな表情で顔をしかめる。
さゆりはそんなえりかの表情に少しだけ安心する。
それは彼女が多分、自分よりも少しまともである証のようなものだから。
初めて、この地におりてハンバードの家に入った時、それが地下にあることにふたりはすぐに気が付いた。
下へと降りていくさゆりをハンバードは止めなかった。
そこには死体があった。
子供たちの死体があった。
身なりからして身寄りのない子供たちのそれだろう。
死体の肉体は綺麗なまま、ただ魂だけが傷ましいほどに欠損していた。
「わたしもああするの?」
さゆりがハンバードに聞くと彼は、いずれは。と重々しく端的に答えた。
そう。と、さゆりは軽く端的に答えた。
この日から、ハンバードとの共同生活が始まった。
彼はあれからずっと研究室に朝から晩まで入り浸っている。
さゆりは彼の生活の世話をしている。
炊事をして、洗濯をして、時に町に降りて買い物をする。
さゆりが料理した食事を出すと、ハンバードは一瞬顔をしかめた後、黙々と食べ始めるので炊事の腕に自信がなくても全く問題がなくて気が楽だった。
洗濯や掃除の類はかつていた村でもそれなりに覚えさせられてきたので特に問題はなかった。
そんな日々が十年続いた。
さゆりにとってもえりかにとってもなんの代わり映えもしない毎日だった。
さゆりは少しづつ齢をとって、自分でも少しびっくりするくらいの美人になっていた。
えりかにそんなことを言うと、彼女は少し困ったように、嬉しそうに、良かったねといった。
その日、さゆりが町で買い物を済ませて帰宅するとハンバードは既にリビングにいた。
その彼の姿を見て、さゆりは少し驚いた顔をした。
彼がなんだか若々しく見えたからだ。
「ハンバード、あなたの
「……ああ、元の体は地下で死んでいる。この肉体は人形だ」
「でも、魂はそこにあるわね」
「ああ」
ハンバードは頷いた。
それはつまり。
「私の目的を完遂するまで、あと少しだ」
そして。
「わたしが貴方に使われるまで、あと少しなのね」
ということだった。
「今晩だ」とハンバードは言った。
「さゆりちゃん。なんなの? なにがあるの? ねぇ、わたしやだよ……」
「えりか、聞いて。わたしたち、これで離れ離れになれるのよ」
「どうして、わたし、わたしずっとさゆりちゃんといたいよ。さゆりちゃんと同じがいいのに」
「わたしは、そうは思わないの。だって、わたしたち、きっともう別人なんだもの」
※
斯くて、日没。
地下室の中にはもう子供たちの死体は残ってはいなかった。
死体のように見える人形が一つ置いてある。
今のさゆりの姿とそっくりな人形だった。
「それが、えりかの体になるのね」
「……ああ」
ハンバードは答えた。
ハンバードの目的のために必要な魂は一つだけ。
巫女の魂は二つある。主人格と従人格。
さゆりが前者でえりかが後者なのは明白だった。
だから、その魂を変質させるのはさゆりだった。
「やだよ、どうして? さゆりちゃんは死にたくなくてあの時、村から逃げ出したんじゃないの?」
えりかの声がする。
そしてその言葉は半分は確かに事実で、もう半分は正確ではなかった。
十年の間に、結構色々変わったし、当時の感情を咀嚼できるようになったとえりかは思う。
対照的に、えりかはずっと変わらない。
さゆりの変遷にえりかはずっと戸惑ったままだった。
そのたびに拙い言葉を使って、どうにかわかってもらおうとしたけれど、さゆりの言葉が拙いからか、どうにもうまく伝わらない。
「約束、憶えてるでしょう?」
さゆりはハンバードにきちんと聞かせる。
彼は例によって重々しくうなずいた。
彼が別に何か思うところがあってこんな重々しくうなずいているのではなく、単純にそういうひとであることをさゆりは知っていた。
「わたしはあなたに使い捨てられるわ。けどそれは魂の話。わたし一つ分の。えりかのものは別。そうでしょう?」
「ああ、そこに置いてあるのは、そのための人形だ。まずお前たちの魂を肉体から抜き出し、分離させる。そのうえで、弱いほうの魂はその人形に自動的に吸い寄せられる。強いほうの魂には変質が訪れる。そういう風にした。これでいいだろう、始めるぞ」
ハンバードは黒いコートの懐から短剣を取り出した。
その胸元に軽く刺した。
斯くて、肉体から魂が解き放たれる。
が、
「えっ⁉」
さゆりは信じられないものを見た。
自分の視界が床に近い。
人形のソレだった。
「バカな! 主人格より、強い魂を持った従人格などあるわけが……!」
だが現実問題、そうなってしまったわけで。
そうなってしまった以上、えりかの魂が変質する――
「待って! そんなの違う! 話が違う! そんなことのためにわたし!」
――はずだった。
「……ッ⁉」
二人は驚愕に目を見開く。
えりかの魂は確かに変質するはずだった。
だが彼女の魂は変質の直前に縮こまる。
それを覆うように赫い糸が、魂を覆っていく。
「な、なにが……」
その糸は抜け殻になった、さゆりから出ている、血の糸だった。
血の糸は魂をくるむ。
虫の幼虫がさなぎになるときのように、全魂に糸が纏わる。
小さく、小さく、圧縮されていく。
それは小さく赫い宝石のような形になり、墜ちた。
呆然と、二人はその様子を見ていた。
えりかの魂は変質を免れ、しかし封じられてしまったのだ。
その場に残るのは、えりかの魂と、人形に魂を移し呆然とするさゆり。
絶望にくれ膝をつくハンバードと、普通にボロボロになったさゆりだった死体だけだった。
ハンバードの計画は失敗したのだ。
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