綻ノ章

                   1


 ある日、空をみていた。

 遠い、空がある。

 ぽっかりとのぞく月が丸く浮かんでいる。

 少女はそんな夜空を見ていた。

 孤独に浮かぶ月を見ていた。

「巫女さま」

 声がする。

 村人の家の誰かしらの声だ。

「お体に障ります。どうか中へお入りください」

「……ええ」

 静かな夜。

 巫女と呼ばれた少女は――さゆりは家の中へ入っていく。

 ロシアとの戦争が終わり、東京のほうでは祝勝ムードが続いているのだろうが、北国の片田舎ではそんなものはあんまり関係なかった。

 ただ粛々と静かで、孤独な夏の夜。

「独りじゃないよ、さゆりちゃん」

 そんな声がした。

 さゆりはすこし疲れたように微笑う。

「そうね、わたくしにはあなたがいるものね」

 さゆりは室内の鏡を見つめる。

 傍からみたら自分の姿が映ったそれに独り言を溢しているようにしか見えないだろう。

 けれど確かに会話をしているのだ。

「そうだよ。確かにもうすぐお役目の日が来ちゃうけど、……もしかしたらわたしたち、離れ離れになっちゃうかもしれないけれど……でもきっとわたしたちいつまでも一緒だよ!」

「ええ、そうね。そうだと、とても素敵ね」

 そんな空虚な返事をさゆりはえりかにした。

 

 気が付いたときにはえりかはさゆりの中にいた。

 それがふたりにとっては普通で、特別なことだった。

 えりかがなぜ生まれて、どこから来たのかをさゆりは知らない。

 知らないし、そんなことはどうでもいいことなんだ。

 そう、さゆりは思っている。

 遠くで波の音がする。

 夜間深く、うちひしぐ水の音。

 海の潮騒ではない。

 河の騒音なのだ。

 まもなく、天災がこの村周辺一帯を襲う。

 大雨、増水。河川の崩壊をはじめとするエトセトラ。

 それを防ぐ人柱。

 代々続く何代目かがさゆりだった。

 さゆりのなかにえりかがいたことが明らかになってもその決定は変わらない。

 不確定要素があろうが関係はない。

 人柱は最初から人柱なのだ。

「……しかも魂二つ分だから土地神様もお喜び~、なんて、てきとうよね、あの人たちは」

「う~ん。そうかも」

 けらけらとえりかは笑っている。

 わたくしが捧げられて死んだら、あなたも死ぬのよ。とかつて彼女に行ったことをさゆりは思う出す。

 その時えりかは、「よくわからない」と、そういった。

 彼女にいのちとかか死とか、そういう概念はなかった。

 そのそもこの肉体はもともとさゆりの物だと、彼女は思っている。

 えりかにとって自身とはなんなのか、さゆりは深く掘り下げようとは思わなかった。

 多分、本人にもまるでわかってはいないのだろう。

 だから、巫女として人柱になって、ものついでに消滅することに抵抗がないのだろう。

 さゆりは……えりかにいなくなってほしくない。

 さらに言えば、自分が死ぬのも嫌だった。

 幼少の頃から散々巫女の教えを説かれてきたけれど、さゆりはそこに誉を見出すことなどなかった。

 逃げ出したかった。

 けれど、どこに逃げ出すというのか。

 少女二人、――物理的には一人か――こんな小さな村にしか居場所はない。

 逃げ出すことはできない。

 逃げ出したところで明日はない。

 今はただ、約束された安然の中にいるのみ。

 ごろりと畳に敷いた布団の上に転がる。

 小さく開いた壁の穴から小さくなった空を見る。

 孤独な宙に、ぽっかりと月だけが浮かんでいる。

 


 宙に浮かぶ月を覆い隠すような黒い影がある。

 黒い男だった。

 闇の奥に沈む墨のような男だった。

 細長い長身の体躯は夜の林に紛れている。

 男は独り、闇夜を歩く。

 それは――どこまでも孤独な男だった。


 男は魔術師だった。

 もうとっくの昔に廃れてしまったものを仕事をしていた。

 ロシアの秘密組織で研究を行っていたこともあるが、時代の変遷と共に魔術部署は排除された。

 研究室を失った男の手元にはそれなりのくらしがしばらくできるだけの慰労金が残っていた。


 

 深い森の中を歩いている、

 鬱蒼とした闇だけがある。

 男の足取りは重苦しくも速い。

 重苦しいのは、これからすることを思って。

 速いのは、男にとって他に何もないから。

 草をかき分ける音。

 獣に見つかれば一大事だが、男にとってはそんなことはどうでもいいのだ。

 そうして男は二つの石ころの前に立つ。

 どこかの誰かの名前。

 妻と娘の墓だった。


 墓地から帰ると、家の鍵は開いていた。

 強い警戒心とともに男は家の中に入る。

「やぁ、ハンバード。久しいな」

 研究書類を勝手に漁りながら、そんな風に家主を出迎える旧友がいた。

 否、旧友というよりかはかつての仕事仲間の腐れ縁というのが正しいだろう。

「……何をしに来た。『――』」

「ああ、今はその名前を使ってないんだ。というか、ここ最近はどうにも忙しくてね、名前がたくさんありすぎて大変だ。これからも忙しくならないといいんだが」

 侵入者の男は。ハンバードの顔見知りだった。

 かつて仕事をしていたときに出会い、それ以来顔を合わせると軽く話す程度の中だった。

 仕事を失ってから出会うのは初めてだったが。

「僕も忙しいから単刀直入にいうよ。ハンバード、きみ、娘さんをよみがえらせる研究をしてるんだろ?」

「……」

「きみの研究を見せてもらってすぐ理解したよ。地下のあれも、そのためのものだろう?」

「貴様……」

「まあ、待て。何も告発しようってわけじゃないんだから。僕もあの手の催しは好きだよ。いやね、孤児が大量購入されてるから何事かと調べてみたんだけど、こういう使われ方をしているなら問題ないね。上にもいい報告が出来そうだ」

 ハンバードを男をじっと見据える。

 その、名前を持たない男のことがハンバードは好きではなかった。

 どこにでもいるような、どこにもいない男だった。

 名前のない男は続ける。

「でもこのままじゃ手詰まりだ。それはきみもわかっていることだろう。そこで、きみにこれを渡したい」

 そういって名前のない男はハンバードに手紙と手形を手渡した。つい最近、戦争したばかりの国の聞いたこともないような地名だった。

「明朝にでも出発するといいよ。どうせきみ、暇だろうしね。その手紙にはきみの娘の復活に際しての僕からのアドバイスが書かれている。道中に読むといい。じゃあ、僕はこれで」

 名前のない男はそういって玄関先に出る。

「待て、貴様。なんだってこんな……」

「まあまあ、縁のよしみだよ」

 最後に、心底信用ならない言葉を投げかける。

 そうして黒いコートをきて、名前のない男は、いつの間にか振り出した雨の中を去っていった。

 ハンバードは男から渡されたものをじっと見つめる。

 やがて朝が来て、ハンバードを家から出た。




 空に白い月が浮いている。

 そんな夏の日。

 暑い夏、けれど川沿いの風は涼やかだ。

 蝉の声が煩く響き、逃水が揺らめく。

 そんな田舎を歩いている。

 夏の景色、夏の影。

 東京のほうは、最近ずいぶんと発展して風景が様変わりしたと、若い子たちが話していた。

 やけに広い青空を遠いまなざしで見つめる。

 遠くで鳥が飛んでいた。

 暑く揺らめく青空はつがいの鳥が飛んでいた。

「巫女様」

 誰かの声が後ろから聞こえる。

 使いの者だろう。

 家を出た時からついてきていることにが気が付いていた。

「御身体に障ります」

「ええ。そうね」

 遠くを飛んでいく鳥がみえなくなる。

 景色がゆがむ、夏の空。

 人柱の儀式まで、あと少し。





 名前のない男から渡された手紙には、ハンバードの考案した術式とは別アプローチの術式が書かれていた。

 曰く、『魂の転写と変換』。そして『その他の候補』

 より強力な魂を肉体から引きはがし、変質させて別のものにし、別の肉体に移すというものだった。

 今彼が向かっている場所というのが『名前のない男』曰く、転写変質とは異なるもう一つの手法においてもその魂は必要になるらしい。

「……しかし、こんな術式。なにをどうしたら思いつくのか」

 ハンバードが怪訝な顔になったのは『その他の候補』と書かれた、もう一つの術式だった。

 『魂の転写と変換』に関する代物も大概人道に反する代物だが『その他の候補』のほうはそれどころの話ではない。名前のない男に魔術の見識があったことは知っていたが、よもやこんな人間が組んだとは思えないような代物を用意するとは。

 これを使うことはない。ハンバードは『その他の候補』のほうを小さくたたんでカバンの奥深くにしまい込んだ。

 汽車の汽笛が煩く響いた。

 ハンバードは汽車を降りる。

 目的地は未だ鉄道の通らぬ田舎にあるらしい。

 日本の夏の地を幽鬼のようなその男は歩き出した。





 村の中が騒がしい。

 どうにも異国からの客人があったという。

 こんな辺鄙な地に一体何の用なのか。

 明日には始まる血なまぐさい儀式を見物に来たのだろうか。

 夏の夜、明日には始まる儀式の前夜。

 さゆりは部屋の隅に座り込んでいた。

 座り込んで俯いて、何もしていない。

 泣くことも、死にたくないということも許されてはいない。

 ただ、閉じ込められた部屋の中で明日が来るのをひたすらに待っている。

 そうして、じっと死ぬことを待っていて。

「お前が巫女か」

 知らない男の声を聴いた。

 目の前に見知らぬ男がいる。

 それは異国の男だった。

 白い肌にやせぎすの躯、長身の体躯、闇が刻まれたように堀の深い顔立ち。

 夏だというのに真っ黒なコートを着ている。

 黒いコートで見えづらいが、裾には血が付着していた。

「私と、来ないか」

 男はそういった。

「それは、ここから逃げるということ?」

「そうだ」

「儀式を放棄して?」

「そうだ」

「あなたに誘拐されるということ?」

「そうだ。きみの答えがどうあれ、私はそのつもりでいる」

「そう」

 目の前にいるのが救いの手でないことは、誰の目にも明らかだった。

 悪魔との契約だと直感でわかる。

 ここで自分がいなくなれば、村は大変なことになる。

 災厄への対抗策がなくなることを意味する。

 でも、その義務を放棄すれば、おそらく自分と何よりも――。

 えりかは、眠っている。

 答えは明白だった。

 目の前の男にどのような思惑があれ、明日死ぬよりはましだと思った。

 さゆりは立ち上がって男の傍に寄った。

「わたしを誘拐して」

 こうして、後のN市となるこの村から人柱が消えた。

 



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