起ノ章5

「どじょうと川に関する伝承はあるよ」

 雨が本格化し始める朝早く。

 電話越しに一唯翔は育野詩郎からそんな話を聞いた。

「本来、どじょうは水田や湿地なんかに生息している淡水魚だ。昔はそれこそN川なんかにも生息していたんじゃないかな。大きな河川だから。まあ、それは実際のどじょうの話。それは僕の専門外なんだけどね。で、伝承だが……ここら辺一体のドジョウ関連の話は一つ。昔、ある若者がお祭りでいじめられているドジョウを助けたんだ。その後、色々あって土地の姫さまが婿を探す話が持ち上がった。姫様が目を付けたのはその若者だ。だが一介の農民に過ぎない若者を姫様の婿殿にするわけにはいかない。そこで家臣たちは若者に無理難題を吹っ掛けた。曰く、川の淵から淵までを歩けと。できるわけないが若者は挑む、すると、ドジョウの群れが現れ、助けてくれた礼だと足場になってくれた。そうして若者は川を歩ききったという話さ」

「……ありがちな話ですね」

「まあ、今のは伝承からかなり端折った話ではあるけれどね。重要なのはドジョウと川べりに伝承が存在しているということだよ。その二つの点はつながりがある。えりかちゃんが川にドジョウがあ泳ぐのを見たというのなら、やはりここにはその超常的存在が絡んでいるのだろう。何しろ彼女自身が超常存在であるのだから」

「…………」

 一唯翔は黙って聞いていた。

 無意識的に、とんとんと、電話の持ち手を人差し指で叩いていた。

「ところで一唯翔くん」

「なんですか」

「今更だが、よくこんな突拍子もない話をまともに聞いていられるね。正直、幽霊少女ってだけで結構な案件だとおもうけど」

 電話越しに笑いながらそんなことを言われる。

 一唯翔は別に詩郎のことを嫌いではないし人間的に悪いものであるとも思わないが、それはそれとしてちょっとこういうところはあれだと思う。

「……別に、目の前にいるんだから居るんですよ、そこに。そのままで。抽象的な話ですけど」

 そういって一唯翔は電話を切った。

 振り返ると窓辺で雨を見ているエリカがいた。

 彼女の傍らにそっと座る。

 そうしてそのよこがおを見ていた。

 いつもとは違うよこがおだった。



 その晩、確かに雨は止んだ。

 一唯翔とえりかはその道を歩いている。

 N川は増水し、いつもよりも随分太くなった。

 懐中電灯で川との距離を慎重に図りつつ、えりかが示す地点へ近づいていく。

 増水した川に近づくなんて言うのは命知らずの馬鹿がすることであるが、今回だけと自分に言い聞かせ一唯翔は歩く。

(……まあ、死んだら死んだだ)

 そんなことを思いながら。

「……ね、カイト。やっぱり危ないし、やめよ? わたし怖くなってきちゃった」

「えりかがそれでいいなら、俺も帰宅することに異論はないけど」

 懐中電灯の明かりを一唯翔はえりかに向けた。

 不思議なもので、実体のないはずの彼女は人口の光に照らされて眩しそうに目を細める。

「でも、いいのか?」

「それは……」

 言葉を詰まらせるえりか。

 軽く、一唯翔は息をして。

「大丈夫、危なくなったら逃げるよ」

 軽く、彼は笑って見せた。

「……約束だよ?」

「うん。約束」

 指切りはしなかったけれど、二人はそう約束した。



 斯くして。

「……ナマズ?」

 それを見た時、不意に出た言葉はソレだった。

 荒れ狂う川の中に大きく横たわるそれは巨大だった。

 巨大なドジョウだった。

 それは、じっと死を待っているかのように見えた。

 ふと、えりかがそのドジョウに近づいた。

 彼女は傍らに佇む。

 巨大なドジョウはえりかを見て目を見開いたように見えた。

「おやすみなさい」

 その声は穏やかだった。

 どこか神聖なものを思わせるような。慈悲の声だった。

 どこか望郷を感じさせるような、あたたかな声だった。

 巨大なドジョウは泥になって融けた。

 その泥の中から大量の通常サイズドジョウが現れた。

 パクパクと一斉に口を開閉する。

 なぜだか、彼らが感謝を伝えているのが分かった。

 やがてドジョウたちが消えるまで、えりかはずっと、穏やかで、やさしくて、泣きそうな顔をしていた。

 その様子を、一唯翔はただ茫とみていた。



 一唯翔とえりかは、なんだか帰る気が起きずに、河川敷で川を見ていた。

 先ほどまで荒れていた川はいっそ不気味なほどに穏やかになっていた。

「昔ね、」

 不意にえりかが語りだす。

「この川が荒れた時、それを治めるのがわたしの役目だったんだ」

 静かに、川が流れている。

「でも、きっとわたしできなかったんだ」

「……そうか」

 どうして? とか、それってどういう? とか、聞けば答えてくれたのだろうか。

 それはわからなかった。

 そして、あんまり聞く気にはならなかった。

「だからあの方々にはたくさん迷惑をかけたはずなの、なのに、何も言わなかった。それどころか、ありがとうなんて。いつかお礼をしますなんて……」

 えりかは座り込んで俯いた。

 その姿は見た目以上に、幼子のように一唯翔には映った。

 黎明さして、

 彼女に手を伸ばした。

 指先が触れた肩先が透明に透けていた。

「帰ろっか、カイト」

 えりかはゆっくりと首を持ち上げてそういった。

 彼女は彼のほうを見なかった。

 一唯翔は頷いた。

 日が昇り始めた。

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