起ノ章3

 父親の記憶は朧気だ。

 母と父はいわゆるデキ婚という奴だったらしい。

 らしいというのは、結婚した両親はまもなく離婚したからだ。

 まれにみるスピード離婚だったという。

 なぜ離婚したのかを母に聞いたところ、そもそも父と結婚するつもりもなく一夜の間違いがおかしな転がり方をしてしまった結果だったのでそれはもうほとんど既定路線だったとか。

 そもさん、父はかなりのプレイボーイで有ったことは母や親族や父と古いつきあいだった育野詩郎から聞かされていたこともあり、母子家庭になったことに納得はある。

 幼い砌はそれなりに思うところもあったが、今となっては割とどうでもいいことだった。

 父は――赤羽航アカバネワタルという男は不思議な男だったという。

 人懐っこくて軽薄で情に厚くて一途かと思えば飽きやすい。彼自身の中に明確な指針のようなものがあるのだが基本、他人からそれはわからない。

 嫌われて当然の男であり、また好かれやすい男であったとか。

 そんな男が消息を絶ったのは一唯翔がまだピカピカの小学生になったばかりの時だという。

 どこでいつどうして消えてしまったのかを誰も知らない。

 記憶の中にある最後の父の姿は、楽し気な笑顔だった。

 傍らには知らない女性がいた。

 背の高い、きれいな女性だった。



 目を覚ます。

 随分と古い夢を視ていた。

 古い記憶の中の綺麗な女性の姿はやけにぼんやりと――。

「おはよう! カイト!」

 古い記憶ユメとは対照的に明るい笑顔と明るい挨拶が寝起きすぐに現れた。

 黒い水晶のような瞳が太陽光に透けてきらきらときらめいて見える。

 ともすれば現実離れした美しさを彼女は持っているのだけれど、その明るい表情にはそれ以上に幼い可愛らしさが滲んでいた。

 一唯翔は寝ぼけ眼をぱっちりと開いて答えた。

「おはよう、えりか」

 えりかと暮らし始めてから既に十日ほどが経過していた。



 朝は割と得意なほうだと一唯翔は自分で思っている。

 寝起きがいいほうなのだ。

 目を覚ますとさっさと布団を畳んで朝食の支度を行う。

 インスタントの味噌汁にパックごはん。冷凍庫に入っている鮭の切り身を焼いて食卓に着く。

「いただきます」

 黙々と食事をする一唯翔と、それをじっと見ているえりか。

「……」

「……(じぃ~)」

「…………………」

「…………………(じぃ~)」

 もくもくと食べる一唯翔とそれをじっと見ているえりか。

 以前、食べたいの? と聞いたことがある。残念だけど幽霊だから。

 最初の一日二日はなんだか食べづらさがあったが、なんのことは数日でなくなる。

「……」

 なくなるが、別に思うところがないわけではない。

 ご飯が食べられないのは、少し、かわいそうだ。

 彼女が別にいいというのならそれでいいのかもしれないけれど。

「えりかはさ、」

 ふと、何とはなしに聞いてみた。

「好きな食べ物とか、あるの?」

 なんとなく聞いて、聞くべきではなかったかもしれないと思う。

「ん~」

 とはいええりかはさして気にする様子でもなく。

「……赤貝?」

「渋いとこつくな」

「そうかなぁ、そうかも。この時代のご飯を食べたら変わるかも」

「そうか」

 食べられたらいいな。と、そんな風に思う。

 口には出さない。出したら、それはきっと残酷すぎると思うから。

 なんだったら、この質問も結構、そういうところあったけれど。

「ごちそうさまでした」

 食事を終えて食器を片付ける。

「学校いくけど、今日もついてくる」

「うん!」

「そうか。でも前みたいに4階の窓の外からこっちを見てくるのは勘弁してくれ、びっくりするし」

「分かった!」

 楽し気にえりかは答える。

 何とも無邪気な笑顔で、彼女が幽霊であることを時々、一唯翔は忘れそうになる。



 幽霊の、ましてや女の子との同居生活なんて初めてのことであったし、不安もそれなりに逢ったけれども、現在の所、つつがなく日々は続いていた。

 この一週間超で分かったこととして、えりかという少女はその美貌とはうらはらに天真爛漫というか好奇心旺盛というか、結構元気なタイプの女性であること。

 それと。

「あれ。靴新しくなってる!」

「ああ、昨日のうちに買っておいたんだ。いいだろ?」

「うん! すごくチョベリグ!」

「……ちょべ……?」

 どうも彼女が持つという現代知識はどこかおかしい。

 傍聞きで世間を見聞きしてきた影響なのだろうか?

「行ってきます」

「きまーす!」

 家の奥からうめき声がした。

 母である宮子の声だろう。

 夜勤帰りで、今から眠り、そのまま夜まで起きない。

 一唯翔はそっと扉を閉じた。

 コツコツと、アパートを歩く。


 通学中。

「うお、まじか」

 通学路が閉鎖されていた。

「どうしたの?」

 立ち尽くして参ったなって顔をしている一唯翔にえりかは尋ねる。

「何でも河川の氾濫だとかで通学路がふさがってしまっているんだ。少し面倒だな」

 一唯翔は参ったように後頭部を掻いた。

「回り道をしよう……って、えりか?」

 えりかはふわふわと浮いたまま、どこか遠く、ひどく遠いまなざしを川辺に向けていた。

「川が、震えている……」

「えりか?」

「―――え? ……………あ、うん! そうだね! 回り道しないと! ほらほら早く! 遅刻しちゃうよ!」

「え、おおう」

 すぐにえりかは満開の笑顔に戻って、ぱたぱたと一唯翔の背中を押した(実体を形成しているわけではないので、何とはなしのあったかさが背中にあるだけだけれど)。

 少し怪訝な表情をしながらも一唯翔は歩みを進めた。

 ただどこか、彼女のらしくない表情が引っかかるのを感じていた。

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