《エピローグ/横断歩道を知らない獣(後)》

「なんでいるんだよ!」

 おれは、校舎の二階の窓から身を乗り出し、グラウンドの種市に声をかけた。

 種市がこちらを見上げ、松葉杖の先でおれらの教室を指した。

「え。復讐です」

「あっは」

 嘘だろ、おい。

 まだやんの?

 種市はおれが思う日常なんかよりも、よっぽど図太くて逞しかった。

 笑っちまうよ、今度は何をやるんだよ?

「これ、ちゃんとつけてください」

 種市は、おれのネクタイをしていた。

 遠目でも、うまく結べなくてだらっと提げてあるだけなのが分かった。

 唯への嫌がらせのため、顔を歪めたところが見たいがために、脚を引きずってここまで歩いてきたのだ。

「あー、えっと」

 種市が口ごもる。

 おれの名前、忘れたんだな?

「荻野! おれ、荻野だから!」

 笑える。むしろ笑ってくれ。

 ここにきて自己紹介。

「荻野……何さん?」

「え」

 下の名前は忘れたんじゃなく、そもそも聞いたこともないって言い方だ。

「知らないのかよ!」

 窓から身を乗り出す。

 堕ちるため?

 ……違う。

 もう、おれは堕ち切れなくても――完全に新しい自分を獲得することが叶わなくても、生きていかなくてはいけなのだ。

 日常は続く。

 アレルギーで肌がぼろぼろになっても。

「堕落」した気になっても、気づけば全てが修復されてしまうおそろしい日々にくじけ、結果として何も変われなくても。

 種市は、醜くマウンティングする獣を――唯を撃つ。

 生きるための狩猟じゃない。

 趣味で行う、面白半分の無意味な虐殺。

 なるほど、人間らしくていい。

 律義に横断歩道を守る獣たちの横で、それを無視して道を渡るのは人間の特権。

「荻野柊羽!」

「どんな字ですか?」

「『ひいらぎ』に『はね』で……いや、今どうでもいいだろ!」

「その羽っていります? 柊だけで『しゅう』じゃないですか?」

 知ってるよ、あぁ、どうでもいい。素敵な名前をありがとう、お父さんお母さん、種市がおれの名前を『柊』と『羽』に分解して呼んでくれている。

 でも、今は名前なんか本当にどうだってよかった。

 たまんない昂揚感。

 日常は続く。

 逃げても追い縋ってくるなら、迎え撃てばいい。

「待っててくれ、今行くから!」

 おれは、田原唯を守りたいと思った。

 でも、そんな人間は、本当はいないのかもしれない。

 ただ、集められたサルの山で吠える獣なんだとしたら、どうして守る必要があるだろう。

 種市はネクタイを結べない。

 一生、結べないままでいてほしい。

 種市にとって、おれはネクタイを結ぶためだけの原始的な獣。

 それでいい。そのためなら「堕落」なんかしたくない。

 今のおれは、クラスメイトと同じ中途半端にルールを守る獣。

 もっと強い野性を手に入れたい。

 純粋に欲しいもの――種市だけを求める存在。

 おれは人間じゃない。

 ホエイとアクエリアスの区別もつかない。

 横断歩道なんか知りもしない、36℃の獣になりたいんだ。

                                   〈了〉

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横断歩道を知らない獣たち 肯界隈 @k3956ui

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