《エピローグ/横断歩道を知らない獣(中)》
種市が車に轢かれた日の夜。
おれは唯と別れることになった。
電話をするなり、彼女はこちらの言葉を待たず『別れよ』と告げた。
直接会うことを提案することさえ、憚られる冷たい調子だった。受け入れざるを得ない。
どう謝ろうかと考えていただけで、どう修復しようかと悩んでいたわけではなかったから。(どのツラさげればいいのかも、考える必要がなくなった)
「……わかった」
おれの答えに、唯は苛立った様子で問い詰める。
『別れるんだよ。いいの?』
どうしろって言うんだ。
縋りつけば満足するってのか?
唯と別れるのか。
哀しい?
つらい?
どういう気持ちなのか、ピンとこなかった。
今でも、大切なのは誰かと訊かれたら、まだ唯かもしれないなんて世迷いごとが過るくらいだ。
ただ、確実に言えるのは。
おれは種市と過ごしたあの日を後悔していない、それだけだ。
『ねぇ、長谷川とね、話して決めたんだけど』
「長谷川……ね」
『卒業まで、学校では今まで通りにしてくれる?』
これだけのことを唯にしてしまったんだ。
いくら長谷川が気に食わなくても、断る権利などない。
『別れたこと、学校で知られたくないから』
「……」
見栄の問題だろうか。
マウントする側も大変だ。隙を見せたら最後、跨った獣に噛みつかれる。向こうはいつだって、虎視眈々と狙っている。
『もちろん、柊羽は好きな人と付き合ってもいいから。てか、あの初号機でしょ。なに、どこまでいったの?』
「別に、そういう関係じゃない」
色んな意味で一緒にどこまでも行きたかったけど、生憎、赤信号にひっかかっちまったからさ。
おれたちは獣なのに、横断歩道も信号を守る。むしろ、獣だからこそ信号無視もできないんだ。
わかっていてルールを破れるのは、人間しかいない。
『いや、もはやどうでもいいけど。とにかく、そういうことで』
唯は一方的に言い残し、電話を切った。
おれは唯の提案を受け入れることにした。
怒りも悲しみもない。
初めて聞いた低いトーンの唯の声が、ちょっとかわいいなと思っただけで。
おれは唯に従う。だっておれは、唯が……おれの世界が大切なのだから。
「柊羽―? 先生困ってんじゃん、ほら、なにもったいぶってんの!」
唯は首を傾げ、おれの顔を窺った。
胸元のネクタイが揺れた。おれのネクタイ。
この教室にいる間は、今まで通りおれと唯は付き合っていて、彼女は今日も、おれのネクタイをしている。
これはフリに過ぎない、いわばごっこ遊びだ。
唯とおれは恋人のフリをしていて。
長谷川はそれを茶化すフリをしていて。
もしかしたら、違和感に気付いているかもしれないクラスの連中も、今まで通り笑っているフリをして。
今まで通りの日常。
実際、今までと何が違うんだろう?
もはや指摘のしようもない。
日常はしぶとい。
首を絞めて殺しても、堕ちていったところで、地獄から這いあがる。
逃れられない。おれが暴れても喚いても、日常は涼しい顔をしてそこにいる。
おれは唯を傷つけてしまったんだ、唯の提案を蹴ってはいけない。
いけない、はずなんだけど。
「柊羽ってば!」
唯を守る?
守って、おれの心が死んでもいいのか?
「……無理です」
おれの一言で、クラスがピリッとする。
ままごとををしている子供たちが急に『家族でもないのにこんなことする必要ない』と言ったら、親が心配するのと同じで。
「無理って、おれだっていろいろ無理してるんだぞぉ、荻野ぉ」
比嘉は困ったような顔をするが、本当は特別どうだっていいという顔でため息をついた。
「柊羽、どうしちゃったの?」
唯は顔を曇らせる。彼氏の顔色を窺う、三歩後ろを歩く女の顔。
どうしたって?
どうかしてるのはお前らじゃないのか?
おれは叫ぶかわりに、立ち上がっていた。
「どこに行くの?」
わからない。いちいち訊かないでくれ。
「ブックオフ」
おれの一言に、クラスの端々から失笑が起こる。
「はぁ? 柊羽、今日おかしいよ」
「おい、荻野ぉ。何しに行くんだよぉ」
ブックオフに何しに行くのか。
『堕落論』を買い戻す?
きっとおれの売ったものが店に並んでいるはずだ。
『堕落論』。
おれにとっての、日常との闘いのバイブル。
「ブックオフは、この教室よりもまともな場所かと思います」
おれは言い捨て、教室を飛び出した。
廊下を駆けながら、どうしておれは走っているのだろうと、笑いたくなった。
いっそ、廊下の先が崩れ落ちてしまえばいいと思う。
崖になれば、勝手に堕ちていけるのに。
窓を開ける。ここからなら、堕ちていける。
おれの日常は、いつまで続いてしまうんだろう?
飛び降りでもしない限り、逃れられないのか。
「……?」
グラウンドにぽつりと、人影があった。
「種市?」
そう、種市だ。
鼻にはガーゼがあててある。
不慣れな様子で松葉杖をつき、校舎を目指していた。
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