《18/気がつけばいつも、横断歩道の島に取り残されている(場合じゃない)》
種市は自動ドアに挟まれていた。
両脇からがつん、とガラス戸にはさまれ、顔を強く打ったらしい。
「おへっ」
種市は鼻を押さえたまま、店の外へとふらつきながら出ていった。
彼女の手の隙間からは血が零れ、眩しく赤い跡が点々と続いていく。
生まれて初めて見た、種市の血。踏みつけたい欲求と、跡すら汚したくないという妙な配慮が交錯し、(彼女の血は彼女から離れた時点で、もうヘモグロビンの塊でしかないのに)おれはそれを避けながら駆け寄った。
「ちょ、おい、待てって!」
おれの声など無視して、種市は長い横断歩道を一心不乱に駆けていった。
そもそも、なぜおれは追いかけている?
わからない。
このまま別れてはいけない、それだけがおれの足を動かしていた。
追いかけているうちに、いつの間にか気にしていた血の跡も踏み荒らしていた。
種市は背が高い割に足が遅かった。おれは彼女に迫り、手を掴んでいた。
「待てってば!」
横断歩道の島にたどり着き、信号が点滅して赤になろうとしても、彼女は気にせずに歩道を渡り切ろうとしていた。
おれは彼女を止めた。
赤信号で渡るのが危ないから?
違う。きっと、種市とこうして話せるのは今日が最後だと予感していたからだ。
気まぐれの一日。
誰にだってあるだろう、『あの日、たいして仲良くないあの人と、どうして一緒にいたんだろう?』という日が。
今日は種市にとっては、その程度の日に違いない。日常にふと訪れた、数年に一度思い出すかどうかの、些細なイレギュラー。
今を逃したら、絶対に後悔する。大切なことを話せずじまいで、一生が終わってしまう。
信号が赤になった。
島に取り残されたおれたちを車のエンジンの唸りが包む。
間断なく行き交う車の波。
常識に逆らう人間をミンチにする、理だ。
「どうして、止めるんですか」
「種市。なにかおかしくなってないか?」
「おかしい?」
種市は唯に復讐を企てる。慈悲なく、唯の心を痛めつけるために画策する。
そこまでは構わないし、おれの種市のイメージからは決して逸脱しない。
けれど、彼女は復讐に身を窶しているうちに、段々と狂い始めている。
「種市はおれのネクタイなんか、死んでもしないやつであってほしい」
「はい?」
種市はきょとんとした。
本当を言えば、疑似的にでもいいから種市をおれのものにしたいという欲望はある。
ネクタイで、おれの元に縛り付けたい。おれの理解の範疇の檻に閉じ込めたい。
その欲望と、種市にこんな世界に堕ちてきてほしくない、手の届く場所になどいてほしくないという、矛盾した思いが渦巻いていた。
おれだってどうしたらいいかわからない。
口をふさがれたまま叫んでいるような感覚だった。
「なんでですか? きみがネクタイしろって言い始めたんでしょう?」
「なんでかはおれにもわからない。言ってることがおかしいのもわかってる。でも、何か違うんだ」
今日、彼女がなぜおかしくなったのか、今ならわかる気がする。
唯のネクタイが、種市が貫きたかった「トートロジー」をかき乱したからだ。
無意味なことの積み重ねを続けていたはずが、理解不能であり、あまりに明確な意味を持った唯の行いによって、狂いが生じた。
「種市には、堕落なんかしないでほしい。変わって欲しくないんだ」
このことに拘って生きるのはもう嫌だと決めたはずだったけれど、『堕落論』を手放した今も、やっぱり囚われていた。
種市のことが好きなのは、おれがこだわっている『堕落論』を意にも解さないからだ。
自分がみじめで、変わりたいと願っているおれを尻目に、自分の歩幅で淡々と進んでいく種市がどこまでもかっこいいからだ。
『堕落論』に拘っているからこそ、種市はどこまでも尊く映っていたのだ。
種市の特別になんてなれなくてもいい。
手に届かない方が、やっぱりいい。
「おれはいつも、この島に取り残されている」
「……?」
わからないだろう。おれの言うことなんか、わからなくていい。
「向こう岸には、おれの求めている『堕落』がある。いや、求めていた、が正しいのかな。渡ろうとすると、こうして車が横切る」
おれが言い終わって間もなく、信号は青になった。
常識を破るものをミンチにする波が静まる。
おれは種市の手を離さないよう、強く握り直した。
「渡ればいいじゃないですか。今みたいに、青のときに」
種市は醒めた目でこちらを見つめる。ネクタイには種市の血で赤黒い染みができていた。
「青のときに渡っても、意味がないんだ。求めていた『堕落』は、姿を消している」
「わかりません。たとえとして穴だらけなんですよ」
明日になれば、おれは唯の手を握る。
それだけ日常はしつこい。逃してなどくれない。簡単に「堕落」などさせてはくれない。
それでも今日だけは、種市とこの浮き島にいて、『堕落論』について語っている。
この非日常的なおめでたさに、今だけは溺れたい。
「堕落、ですか。仮にそれをして、どうなりますか」
種市はおれが手を放そうともしないので諦めたのか、こちらの話に応えてくれた。
「おれは臆病な自分を捨てて、変わりたかったんだ」
絞り出した言葉。
あまりに単純で、重ねてきた論理を自らぶち壊している。
でも煎じ詰めていけば、たかがそういうことなのだ。難しく考えようとするから、すべてがわからなくなるだけで。
「常識なんかに囚われないお前に憧れていた。矛盾しているかもしれない。『堕落』することで、『堕落』なんか気にしない人間になりたいって」
だからなんですか?
種市はきっとそう思っただろう。
独白すら丁寧語の種市。
使い分けが面倒、という雑なその他グループに振り分けられたおれへの言葉。
「それは期待はずれですよ」
彼女は鞄から、リボンタイを取り出した。
「えっ」
そして、彼女はおれのシャツの襟をそっと立てた。されるがままになっているのは、予想外の反応に、胸が躍っているからだろう。
上から見下ろされるのが心地よい。
首の後ろに腕を回される。彼女が着ているシャツからはおれの汗のにおいがした。ネクタイからするにおいも、きっとおれのもの。
おれ自身に見下ろされ、ネクタイをつけられているように錯覚した。自己愛で下半身が熱くなる。
「異性同士で、ネクタイを交換することが今の高校生の悦びなんですよね?」
「……え、まぁ」
いや、ネクタイを交換するんじゃなくて彼女が彼氏のネクタイをするだけ……と正しく説明すべきか迷ったが、種市のネクタイを外したくなくて黙っていた。
「私にはやっぱり、きみや田原唯さんの考えていることはよくわかりません。でも、わかってみたいなと、少しだけ思ってしまいました。クラスの男子のネクタイをすることは、グロテスクで、なぜか気持ちがいい」
種市にだって、普通の女の子の部分がある。中身がどんなに変人でも、体が別の反応をすることがあるのだろう。
体が悦んだ。そんな、安いアダルトビデオじみた自虐だ。
「ほら、期待はずれでしょう?」
常識への歩み寄りだろうか。それとも、単なる気まぐれだろうか。
もし、前者であるなら、おれはがっかりしてはいけない。
種市だって揺らぐ。揺らいだって、絶対に種市に戻ってくれるはずだから。
「でもね、私も期待はずれなままでは帰れません」
「どういうことだよ?」
「なので、きみができない『堕落』とやらをさらーっとやってのけるます。手を放して」
おれは迷ったが頷き、彼女に従った。
信号が赤になった。
もう何回、またたきを繰り返しただろう?
ここにいる時間が永遠だったらいいのに。
なんて、おれは常識的な欲望を抱いていた。
「無意味なこととは、何か。利益をもたらさない――不利益なことです。クラスのイケてるグループの女子に刃向かったり、自分の感情に任せて復讐をしたりね」
「……?」
「それを積み重ね、意味を見出すこと。トートロジーです」
種市は言い残すと――。無意味に車の波へと飛び出した。
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