《19/常識的な光景》

 何の利益もない行動だ。

「種市!」

 手を取ろうとする指が空を切る。

 種市は走るでもなく、ただ、日々の平均的なリズムで歩く。ぐるぐるとサークルを描いて歩き回るときの速さ。彼女がおれの頭を掻き乱していた速度で。

 種市に迫った車が急ブレーキを踏み、スピンする。それをよけようとした車が波からはじき出される。ここまで、きっと19秒。

 踊るように走る種市のレジメンタル・タイが揺れる。

 おれのネクタイ。まるでおれが車の前に飛び出し、「堕落」を試みている。

 一瞬だけ、そんな錯覚にさえ陥った。

「避け……」

 ぼん。

 おれの声は、鈍い音に掻き消された。

「種市!」

 種市は轢かれた。避けようともしなかったように見えた。

 信号を守っていたのに女子高生を轢いてしまった運転手は、保険や法律という常識に守られて事なきを得るだろう。

 種市は車の波へと飛び出した。

 もちろん、轢かれたらどうなるかを知りながらも、軽い足取りで。

「堕落」とは、すいすいと車をかいくぐることなんかじゃなく、車を気にせずに歩くことでもない。

 常識に逆らう脅威を知りながら、それでも引かないこと。

 無意味さに怯えず、それを破ること。

 そういうことじゃないか。

 意味なんて、勝手に誰かが決めたことなんだから。

 種市は、やっぱり種市だ。

 彼女は揺らいでいた。振り子のように弧を描き、おれや唯のような存在に近づきかけ。

 車の前に飛び出ることで、彼女らしさへと、彼女の日常へと、無理やり回帰した。

 彼女がどういう考えでそんなことをしたのか、真実は知りようもない。あくまで、凡人の推測でしかないのだ。

 おれが納得できない理由なら、尚更いい。

 そんなことよりさ、種市。

 おれ、お前が言う『人生の本当の意味』、わかっちゃったかもしれない。

 わかってる。

 わかってるよ。

 そんなの、本当は無意味だってこと。

 明日になったら、『だからなに?』(『なんですか?』だろうか)に変わってしまっていること。

 でも今だけは、お前が撥ねられた瞬間――。

 一瞬だけ、全部のが重なって、意味があるものに見えたんだ。

「救急車来たぞ、道開けろぉ!」

 誰かの叫びが聞こえる中、おれは妙に落ち着いた心境で種市を見つめていた。

 怪我をしたら救急車で運ばれる。

 そんな常識的な光景に、手を振りながら。

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