《15/『堕落論』、十円也》
唯の声の震えが止まったのがわかる。静かだけど、はっきりとした悪意が伝わってきた。
野性的な悪意だ。外敵を、自分の本能に基づいて殲滅する。
同じ群れの中で行うマウンティングとは違う、唯の攻撃的な野性。
おれたちは人間などではない。
素晴らしい人生という誘惑に駆られた、獣でしかないのだ。
それを回復するためには――。
もう、トートロジーしか残されていない?
種市がまともだと感じた理由。
今ならよくわかる。
――あのクラスには、種市しか人間が存在しなかったからだ。
『あんなキチ女に、頭なんか下げたくない。気持ち悪い。キモいより上だから。気持ち悪いキチ女。初号機。あれそっくりの、気持ち悪い体。あんなのが好きなの? 柊羽も狂ってるね』
「……」
『何か言ったら?』
どう答えたって、いい未来は待っていないじゃないか。
『言いなよ』
次の言葉を間違えたら、本当に終わる。
唯との関係も。
醜いけど、どこまでもあたたかい日常も。
『じゃあ、うちも黙る』
互いに沈黙する。
次におれが何を発するか、それで今後のすべて決まりそうな予感がした。
「何を黙っているのですか」
種市はおれに迫ると、携帯を奪い取った。
「え、ちょ、おいって!」
彼女が腕を伸ばすと、おれは届きもしない。
種市は、携帯を耳元にあてる様子すら、窮屈そうに見えた。
「田原唯さん。私は」
種市の望み。唯が、深く傷つくこと。
だとしたら今、彼女が発するべき言葉は一つしかない。
「やめろ!」
おれは飛び上がり、種市から携帯を取り返す。だが、遅く、
「貴方の彼氏さんは、私が好きなんです」
種市はおれに顔を近づけ、大声で電話口に向かって呟いた。
彼氏さん?
ていうか今、おれの名前忘れただろ?
唯の名前はすらすらと出てくる。復讐に夢中で、おれは本当にダシでしかないのだ。
卒業して顔を合わせる機会を失ったら、本当に種市はおれの名前どころか、存在すら忘れてしまうだろう。
……そんな現実逃避めいたことしか、頭に浮かばなかった。
唯の顔など、想像もしたくない。
「唯!」
おれは電話口に向かって叫ぶも、すでに通話は途切れていた。
種市の声は届いたはずだ。
放課後にずっと一緒にいる時点で、唯からしたら完全にクロ。
もう、終わったか。
「おそらくですけど、私が……」
種市は宙を見つめ、目の中の光る虫を追いかけるみたいに、視線を落ち着きなく漂わせた。口から、ふ、ふ、と息が漏れる。充足感に満ちた笑顔だった。
「きみと、付き合う、なんてことになったら田原唯さんはとても傷つくのだろうと、思いまして」
やめてくれ。恋愛なんか、絶対受け入れないのがお前なんだろ?
唯に復讐したいのはよくわかった。そのためにおれをいくら利用してでも、というのも。
世間がどう思おうと、なりふり構わなさは種市像をより崇高にすることでしかない。
だからと言って、そのためにおれと付き合うなんてことはしてほしくない。
「なにせ、私は彼女からしたらただの頭のおかしい女にしか見えていないはずです。自分の彼氏を狂った女に取られたら、そんな屈辱はないと思いませんか?」
種市にとって、唯は自尊心と自己顕示欲の塊にしか映っていない。ネクタイの一件だって、種市から見たらあまりにイメージ通りで笑わざるをえなかったのだ。
「ご安心を。間違っても、私ときみが付き合うなんてことはありません」
どうしてか、唯に対する焦りが生まれない。
完全にアウトだと悟ってしまったからか。
キチ女。本当にそうだ。
唯への復讐のためなら、おれの人間関係を踏みにじれる。
ゴキブリ一匹を殺すために、躊躇なく建物ごと爆撃する女。
種市の歪みを思い知るほど、いかれてる、と強く感じる。
なのに、傷つけられても貶められても、どうしても嫌いになれない。
「……」
あー、終わった終わった。もう、今日やるべきことは一つだけ。
『堕落論』をブックオフで買い取ってもらう。
きっと10円。
「どこいくんですか?」
おれが背を丸めて歩き出すと、種市は3歩後ろから問いかけてきた。
……てか、まだついてくるの?
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