《14/iya》

 ひとつ目のコール音が鳴ってすぐ、唯に電話が繋がった。

 心の準備が整わない。短く息をつく。向こうは妙に静まりかえっていた。

 唯はカラオケ屋を出たのだろうか。

「唯? 長谷川と一緒か?」

 なんでこんなことから訊いてしまったんだろう。おれは長谷川を恐れているのかもしれない。唯によからぬ考えを吹聴するように思えるし、長谷川の影響は強そうだ。

 よからぬ考えか。

 おれが、実は唯のことを真剣に好きじゃないとか?

 長谷川も馬鹿じゃない、ただのでっち上げではなくおれの本音を知ってのことだろう。

『……』

 唯の沈黙から、強い緊張が伝わる。

「ひとりなんだな?」

 つい、責めるような言い方をしてしまう。

 唯に対して、おれはどんな風に喋っていたっけ?

 彼女が心の裡に抱えた闇を想像すると、とても心穏やかではいられない。

 唯の中にある、種市への怒りの衝動。

 それを宥めていかないと、話をしようもないな。

「……(はやく)」

 種市は声を出さず、口の動きだけでおれを急かす。

 早くったって、何をだよ?

「(はやく)」

 怪訝そうな顔をすると、彼女はじれったそうにおれのネクタイの先を持ち、くっと強く引っ張った。いうことをきかない犬の躾け。

 それだけ、今のおれと種市の関係性は上下がはっきりしていた。

「待ってくれ」

 おれはどうにか種市を制する。

 唯を落ち着かせてから、種市と話し合いをさせよう。

「ごめん」『ごめんなさい』

 おれが短く謝ろうとすると、重ねるように唯も謝罪した。

 互いの言葉の意味合いは違うものだろう。

「……あのさ」

 『おれに謝ってもしょうがないだろ』と言いかけたところで、唯の激しい嗚咽に気付く。

 震える声で、彼女は言葉を絞り出し続けた。

『ごめん。ごめん、なさい。なんて言っていいかわからない。ごめんなさい。どう、してあんなことしちゃった……んだろう。ごめんなさい』

「ちょ、え」

 リズムの狂った言葉の波。

 おれが知っている唯はもう帰ってこない。そんな風にさえ思った。

『うちのこと、嫌いにならないで。絶対に直すから。お願い。嫌いにならないで』

「……え、いや」

 目の前に崖でもあったら、本気で飛び降りかねない調子だ。

 長谷川、お前何を歌わせたんだ?

「違うんだよ、今、話したいのは好きとか嫌いとかじゃなくって」

『ごめんなさい。嫌いにならないでください』

 彼女にはもうおれの声は届かない。

 心を閉ざしてしまっている。

 反省を口にしているが、そこにある感情はおれを責める恨みがましい気持ちだろう。

 ――柊羽がそんなんだから、私はおかしくなっちゃったんだよ。柊羽が悪いんだ。

 いっそのこと、そう言ってくれたらどれだけいいか。

 そこから唯は、『ごめんなさい』と『嫌いにならないで』を繰り返した。ゲシュタルトが崩壊しそうだ。

 彼女自身も、もはや何を喋っているのかわからなくなってしまうのではないか。

 トートロジー。同じことの繰り返しから、意味を見出すこと。

 それは難しいことだ。大抵のことは、繰り返しているうちにいつの間にか見失ってしまうものだから。

 ……種市も、もしかしたらトートロジーを肝に銘じながら生きているうちに、色んなことがわからなくなっているのかもしれない。

 よく考えろ。唯は錯乱している。チャンスだ。

 思考停止した唯なら、うまく言葉を滑り込ませれば、懐柔できるかもしれない。

「はやく」

 種市が、今度ははっきりとした声でおれをせかした。ネクタイを再び引く。場にふさわしくないとわかっていても、自然と口元がにやけてしまう。

 人間に飼いならされることを知った、哀しい獣。

「一緒に種市に謝ろう?」

『……iya』

 唯の呻くような声。

 何といったか聞き取れないのに、どうしてこんなに不安なんだろう。

「な、唯」


『それは嫌』


唯のどこまでも醒めた声が響いた。

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