《13/酸素アレルギー》

 種市は淡々と続けた。

「田原唯さんは、アダルトチャットの客相手でも、懸命に尽くしそうですよね。そういう女に見えます」

「それは褒めてる?」

「褒めています。私にはできません。痒くて」

 ……種市。

 この国では、恋愛アレルギーだと生きていることが苦痛になる。ドラマ、映画、音楽、周囲の人間関係、おれたちがそこにいる理由すら、恋愛が関わっている。

 生きていること自体がむず痒くて、つらい。

 それは、

 生きていること自体が苦しい。

 きっと、おれも。

 突如、どうしようもなくいたたまれない気持ちになる。

 さっきまでは、種市がついてくるのを疎ましがるふりをしながら、内心ははしゃいでいる部分も大いにあったと思う。

 被害者ぶっていただけで、想い人といられさえすれば楽しかったのだろう。

 けれど、こちらが加害者だと気付いてしまった今、一緒にいることが初めて苦痛に思えてきた。

 酸素のアレルギー同士、互いを刺激しないようにしよう。

 つまりおれたちには、生きることそのものが向いていない。

「今からどこ行くんですか。そこに田原唯さんを呼び出してください」

「……」

 その命令に背けば、すべて言いふらすというのだろう。唯の大学推薦も取り消しになるに違いない。

「……ブックオフ」

 おれは顔を上げ、右わきに建物を指出す。

 横断歩道を渡った先、国道沿いにある、3階建ての大規模なブックオフを指さした。

「どうしてですか」

 どうして?

 ブックオフに行くと言って、理由を訊く人間もあまりいないだろう。

 本を買いに行くか売りに行くか立ち読みをするか、せいぜいそのくらいしか選択肢はないから。ブックオフはそういう疑問とは無縁の空間であってほしい。

「他の場所にしてもらえませんか?」

「……なんでこっちがそんなこと」

「私はね、田原唯さんに復讐をしたいわけですよ。その舞台がブックオフということはないでしょう。おそらく、今までブックオフで起きたドラマは日本中でゼロ件ですよ」

「……んなこと言われてもな。本、売りにいきたいんだ」

 今更、『堕落論』の話なんて本当はするべきじゃないってわかっている。

 最後の抵抗だ。

「気まぐれで買ったけど、つまらなかったから」

 下らない嘘。読んだその日から、ずっと囚われていたというのに。

「わざわざ一冊だけ売りに?」

「そう。……『堕落論』」

 おれは明るく声を作る。夢を諦めた大人が納得した素振りを見せるのと似ていた。

 「堕落」できなかった大人たちの笑顔。

 おれもこうして身に着けていくのだろう。

「『堕落論』。堕落。堕落ですか」

 彼女はその言葉を反芻する。

 おれは思わず期待してしまう。

 彼女なら、おれが言わんとするところを理解してくれるのではないかと。

 おれは安吾のいう「堕落」について、一番大切なところを説明した。

「『堕落』とは、世界の常識を捨てきること。おれは、そう解釈した」

 種市の沈黙。

「常識を捨てることは、今の日常を捨てることだ。日常はしつこい。ついて回ってくる。それを振り切ることができたとき、人間は完全なる『堕落』を成し遂げる」

 こちらの口が滑らかになるほど、種市の無反応が際立った。

「わかりませんね。少なくとも、私はそんなことを考えながら生きようとは思わない」

 撃沈。あぁ、心底興味がないって態度だ。

 いつもみたいに考え込み、ぐるぐるしゃかしゃか歩くことすらしない。

「……そっか」

 何をがっかりしているんだ、おれ。

 あぁ、これじゃまるで。

 まるでおれが、好きな女の子に好きな本を否定されて哀しむような「堕落」とは程遠い人間みたいじゃないか。

 いや、もうそれが正解なのはわかっている。

 待てよ、よく考えろ。

 種市は、おれが囚われている「堕落」を意に介さないところがいいんだ。

 言い聞かせる。

 悲しみに限りなく似た安心感に包まれ(逆じゃないかって?)、おれは今日いちばんの笑顔を作った。

 信号が青になる。いや、既に何度もなっていたのだろうが、話したいがために、無意識にスルーしていたのだ。

 自分のなかで、ぷつっと気持ちが切れたのがはっきりとわかった。

 おれは横断歩道を渡る。種市はまた3歩後ろをついてきた。

 まさか、家までついてくるつもりだろうか。

 唯の嫌がることを聞き出すために?

「まぁ、この際ブックオフでもいいです。まずは田原唯さんを呼び出しましょう」

「ごめん。やっぱりそれはできない。まず、話し合ってみてくれよ」

「なんで駄目なんですか。教えてください」

「なんでって」

 さすがに苛立った。

「わからないよ、おれにも。よくわからないんだ。ただ、唯のことを、守らなきゃって」

 何を言っているのだろう、おれは。

 種市は大笑いするだろうと思ったら、むしろ不思議そうに黙っていた。

「なんだよ」

「守らなくてもいいでしょう」

「……?」

「だって、きみは私のこと、好きなんでしょう?」

 おい、冗談だろ。今更それはない。

「好きだからなんだってんだよ?」

「告白の返事、私、していないですよね?」

 おい、やめてくれ。

 おれは咄嗟に、種市の言葉を遮った。

「電話、かけるから。まずおれが話してみる」

 おれは逃げた。自分にとって都合のいい、甘い誘惑から必死に顔をそむけた。乗っても、うまくいくはずはない。種市は復讐のために、おれを利用しているだけなのだから。

 電話のコール音。その音がひどく遠く聞こえた。

 種市が今、言いたかったことはなんだろう。

 ――告白の返事、してないですよね?

 ということは?

 てことはよ?

 あぁもう、余計なものをちらつかせないでくれ。

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