《8/疼く19秒》

「シャツ。貸してください。寒いんで」

 雫が滴るシャツの裾を絞り、髪を掻き上げる種市。

 いじめに遭う、ひどい目に遭わされたというより、純粋に「寒い」と不満そうに唇を尖らせた。

「……おれ、シャツ一枚なんだけど」

 Yシャツを貸したら、上半身裸だ。置きジャージも夏休み中だから用意がない。

「貸してくれないと、このこと学校中に言いふらしますよ」

「え、お前誰にも言わないって」

 あぁ、さりげなく種市のことを『お前』なんて呼んでしまったことが、ちょっと照れくさくてたまらなく快感だったりする。

「え? あぁ、嘘ですよ、あんなの。こんな目に遭わされて、はいはい言うこときくわけないでしょう」

 正論。

 どこまでも正論。

 やっぱり種市はまともだ。

「早くしてください」

「いや、おれも汗結構かいてるよ」

「ずぶ濡れの女を目の前に、濡れ方で勝負するんですか?」

 そう言っている間も、種市のシャツの裾からはアクエリアスが滴っていた。

 種市に背き、気持ちを逆撫でしたら今の出来事を吹聴しかねない。

 唯の未来がかかっている。

 おれは、唯を守るためだと言い聞かせ、シャツを脱ぎ、種市に渡した。

 ネクタイを差し出すか一瞬迷ったが、「ネクタイはいらないです」とすぐに念を押されたので黙っていた。

「これはこれでべたべたしますね」

 種市はおれのシャツをきたないものを掴むように指先でつまんだ。

 ……てか、着替えるってここで?

「あの、向こうむいてようか?」

「なんでですか?」

「……え、なんでだろう?」

「とか言ったら、嬉しいですか?」

 と、彼女は笑いもせずに顔を近づけた。

 きめの細かい綺麗な頬に、一点、小さな白いニキビがあった。

 無表情の顔がこんなに近づくことは初めてかもしれない。

「19秒で着替えますから」

 種市は早口で言う。

 意外だな。

 常識知らずに見えるけど、肌を露わにしたくない、という程度の羞恥はあるらしい。小さなニキビ程度の常識だが。

 ぷちゅっとつまんだら膿が出そうで、おれのなかで「ホエイ」の渦の中に「ニキビ」が加わってしまいそうだった。

「わかったよ、19秒」

 そんな無駄に具体的な秒数、どこから出てきたのよ。

 もしかして、種市の体温?

 おれらのおおよそ半分か、気持ち高めってことですか?

 いや、むしろ体温自体がないといいな。

 ……なるほど。

 いやはや。

 おれは本当におめでたい人間らしい。

「いいぞ」

 おれが目をつむって後ろをむこうとすると、彼女はずいと、唯が残したペットボトルを持ち上げる。

 それを顔の前にかざす。彼女の顔が濁った白い液体越しに歪んで見えた。

「持ってください」

 おれは揺らめくモザイク越しの彼女を見つめ、視線を固定したまま、手探りでペットボトルの口の首のあたりを掴んだ。

「どうですか? ちゃんと隠れてますか?」

 白濁したアクエリアスの向こうで、種市が着替えをしている。白に肌色が少し混ざる。シルエットがわかりそうでわからない。

 揺らめく濁った水越しに行われる、ぼやけた白と肌色のストリップ・ショー。

 顔をほんの数センチずらせばモザイク除去ができるのに、おれはただ光の屈折越しの彼女に馬鹿みたいに19秒ばかし夢中になって。

「どうもこうもないよ」

「19秒、経ちましたか?」

「いや、まだじゃないかな」

 もう数えちゃいないけど、彼女がボタンを掛け違えている間に何分経とうが、きっとこの時間は19秒のままで――そうだよ、こういうのが恋って言うんだよ。

 たぶん日本が戦争に負ける前から、ずっとそう呼ばれていたはずなんだ。

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