《7/世界を壊す勇気》

「柊羽? ねぇ?」

「唯……?」

 おれはどう言葉をかければいいのかわからず、呆然と階段上の唯を見上げた。

「ごめん。やめらんない」

 唯はおれの視線を抗議と受け取ったらしく、謝罪した。

 が、やめる素振りはなく、2リットルのペットボトルでひたすら種市のつむじを狙い続ける。動かずに濁った滝に打たれる種市。口元がにやけているように見えた。

「ごめん」

「……」

 階段を駆け上がる。驚きで声も出なかったが、自然と足は動いていた。

 あぁでもなんかな、こういうときに『何をやってるんだ!』だの『やめろ!』だの簡単に出てこないのがじれったくて、同時に簡単に怒らない自分が愛おしかったりもする。

「唯」

 おれは唯のペットボトルを奪い取り、一瞬睨みつけそうになったが、堪えて笑顔を作る。

「唯は本当にそそっかしいな。うっかりだもんな?」

 おれが声をかけても、唯はなくなりかけたアクエリアスを、調整しながらちょろちょろと種市にかけ続ける。

 いや、種市も種市だ、どうして怒ったり、せめてよけたり逃げたりしないのだろうか。

「うん。うっかり」

 唯は明るい顔で頷いて、あろうことか鞄から2本目を取り出した。これ持ち歩いているのか、すごい力だな。

「唯。2本目はちょっと。な?」

 いよいよ、うっかりじゃすまなくなるぞ。

「柊羽は今どういう気持ちなの?」

 唯は固まった笑顔から一転、明らかな悪意をおれにぶつけた。

「え」

「答えられないんでしょ。そうなんだよ。柊羽ってそういう人なの。どういう気持ちでもないんでしょ。ただ、とりあえず場が収まったらいいなと思うくらいで、何一つあたしのことなんか気にしちゃいなんでしょ」

「そんなことないって」

「そんなことあるからあたしがこんな気持ちになるんじゃないの?」

 落ち着け。思い出せ。

 唯と最後に会ったのは、保健室の前。おれの言葉で、唯は『真面目で優しい柊羽が云々』と言い、とにかくいい感じで別れたはず。

 今、種市と一緒にいたせいで一気に不満が噴出したのだろうか?

 それとも、あのときの唯の言葉は偽りの気遣いだったのだろうか。

「唯、ちょ、なにしてんの!」

 廊下を激しく駆ける音が近づき、長谷川が現れる。彼女はガッと唯の腕を掴み、ペットボトルを取り上げた。

「……長谷川ぁー」

 唯は途端に涙声になり、長谷川の胸に顔を埋めた。

 急転直下の感情におれは面食らう。長谷川はそこまで驚いた様子もなく、唯を受け入れているように見えた。

「っけひ」

 種市の含み笑い。

 友情ごっこ。ある種、彼女の大好物が降ってきたようなものだ。

 そこでようやく、なんだかんだで、好き勝手やっているような唯もおれには結構気を遣っていたのだと気付く。

 唯は、おれの前では種市を恨む黒い感情を押し殺していた。

 くもりのない、かわいくて無邪気な彼女を懸命に演じていたのだろう。

 おれへの不満も、大半は堪えて長谷川に吐き出していたに違いない。

「柊羽ももっと早く止めなよ。唯、たまに壊れちゃうんだから」

「たまに、って」

「だから言ったのに。柊羽と付き合うのはやめた方がいいって。信用できないから」

 長谷川は怒るのでもなく、ただ呆れたようにため息をついた。階下の種市に向かって、今度ははっきりとした敵意をむき出しにする。

「初号機ちゃん。これは唯のうっかり。水をこぼしてしまっただけ」

「……これは、水ではないかと」

 種市は怒りを向けられても、あくまで飄々とした調子だった。

「私はそういう話をしているわけじゃないからね」

 長谷川は瞬時に種市の顎を掴み、手にしたペットボトルの口を彼女の唇に押し当てた。

「っごほ!」

 種市は反射的に流し込まれた水を吐き出した。気管に入ったのか、激しくむせ始める。

「長谷川」

 わからない。

 どうしてアクエリアスをかけられているときは黙って見届けようと思っていたのに、無理やり飲まされたら急に手が動いてしまったんだろう。

 止めるにしたってもう遅いのはわかっている。唯に対してどういう感情を抱けばいいのか、きっと前と同じように接することは難しいだろうと。

「柊羽には何もできないよね」

 長谷川はむしろどういう気分なんだろうか。

 おれの予想は当たっていたのかもしれない。

 髪を眼鏡のつるの内側にしまおうとするやつにロクなやつはいない。

 無意識に感じていた危険信号に、反応していればよかったのだ。

 どうすればいい?

 このまま種市の手を引いてこの場を去ったところで、どこに行けるんだろう?

 今ここから逃げたって、日常から逃れられるわけではない。

 おれは夏休みが終わったら学校にまた通うし、唯も長谷川も――種市も、これからずっと存在し続ける。

 おれには世界を壊す勇気などなかった。

 今までと、同じように。

「別に誰にも言いませんよ」

 息を整えた種市が長谷川からペットボトルを奪い、一口含んだ。

「これ以上、私に何もしなければね。いずれ乾きます。多少べたつきますが」

「……信用できないけど、信じるから」

 長谷川は冷たく呟き、唯の背中を強く叩く。

「カラオケ行くぞー、唯!」

 唯の手を無理矢理引いて、おれと種市の脇をすり抜け、階段を降りていく。

 その間も、髪を眼鏡のつるの内側に収めようとしていた。

 こんなことをした後で、カラオケでどんな歌をうたうのだろうか?

 唯は後悔しているはずだ。ただ、この場で謝ることもできなかったのだろう。

 やってしまったとは思いつつ、頭が凍りついていたに違いない。

 おれが種市と話していたのがよくなかったのだろうか。

 おれが種市に捕まらなければ。

 おれが種市と話しているときに心を躍らせていなければ。

 唯は単純に、種市をけん制する程度で終えようと思っていたのではないだろうか?

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