《6/常識は、凡人に与えられた上手に生きるための説明書だ》

 4限目の倫理学が終わり、久々の授業を終えた疲労感と、開放感でいっぱいになる。

 終わりのホームルームのために、比嘉が倫理学の教師と入れ替わりで入ってきた。

 唯は結局、最後まで教室に戻ってこなかった。比嘉が一声「はい、帰ってよーし」とだけ言うと、早くも解散の空気になった。

 ちらっと種市を振り返る。彼女はひとり、黒板と手元を交互に睨み、黙々とノートを取り続けていた。

 手を動かしているのは種市だけ。なにせ教師が、テストには出ないとはっきりと明言したところだからだ。

 倫理学から哲学に派生し(喋りはじめると止まらないようだった)、教師は哲学者のヘーゲルについて語っていた。

 ヘーゲルは、人間をこう定義したという。

 ――自然に逆らうのが人間である、と。

 それを受け、同じく哲学者のコジェーヴは、もはや人間にとって社会は自然のひとつであり、社会の言いなりでは動物と変わらないと嘆いたという。

 動物が上か人間が上か、そういう問題ではない。

 

 マウンティング。優位性を示し、従わせること。負けを認め、従うこと。動物の本能。

 おれもクラスメイトたちも本能の奴隷だ。横断歩道や信号を守るのは、人間だからじゃない。

 おれたちが規律に従順な獣だから、とも言えるのではないか。

 ……動物園か。

 返す言葉もありません、仰る通りですよ、種市さん。

 種市は生徒たちが帰り始め、教室が閑散としたあとも、なにか走り書きをしていた。

 授業の内容がよほど気に入ったのだろうか。

 いや、もしかしたら種市は意味がないと思ったからこそ、懸命に手を動かしているのかもしれない。

 だとしたらお前、ずいぶんとかわいいな。

 おれは教室を出て、唯の様子を見に保健室へ行くことにした。

 人けのない2階の踊り場にさしかかると、「ちょっと」と後ろから呼び止められた。

「荻野さん」

 振り返り、思わず反射的に妙な愛想笑いを浮かべてしまう。

 ……種市?

 一度として、彼女から声をかけてきたことはない。

 対応に困り、笑顔のまま固まり、様子を窺う。彼女は勢いよく階段を降りてきた。

 なるほど、膝からいくタイプ。全部の動きが窮屈だ。

「実はですね」

 種市は2年前の告白のときと同じように、膝を屈めて子どもに話すようにした。

 今考えると、彼女なら意図して傷つけるためにやっていてもおかしくはないし、小さく傷つけられたいとも思っていた。

「相談があるんですけど」

「相談? おれに?」

 好きな人から相談と言われて、動揺しないやつはいない。

 つとめて冷静に振る舞おうとするが、頭の中は、種市が手足を振って歩く、甘美な「しゃかしゃか」音に包まれてしまう。

 目の前に種市がいるのに、頭の中にも歩き回る種市が浮かんでしまうなんて。

 しあわせだ。

「実はですね、ロッカーに手紙が入っていまして。田原唯さんから呼び出されています。というか、ここで待っていろと」

「……唯から?」

「ええ。これきっと、しめてやろうぜっていうやつかなぁと思うんですが」

 唯の恋人という立場上、そうだとも言えないが……どうなんだろう?

 唯が種市を呼び出している?

 唯はとても誰かをしめるとは思えないが、恥をかかされたのは事実だ。以前から種市に対して確執もある。

 報復の一つ、してやりたいと思うのは当然。

「無視するって手もあるな。種市には種市の事情がある」

「でも、何の用もないから待っていようと思えば待っていられるんですよ」

「……」

 どうしろって言うんだ。

「あ、相談になってないですね。たぶん、今日無視したところで、いずれ何かされそうだなとは思うんですよ。それが、今日なのか夏休み明けなのかってくらいで」

「え、だから何の相談?」

「あぁ、だから、一緒にここにいてもらえませんか? という相談です」

「お守りみたいなもんか?」

「お守りみたいなもんですね」

「おれがいたところで、穏便にいくかな」

「わかりません」

 おれは思わず噴き出した。そりゃそうだ、そんなのわかるはずもない。

 ……種市、お前はやっぱりいい。

 常識は、凡人に与えられた上手に生きるための説明書だ。

 だが、彼女はいつだって説明書を読まずに捨ててしまう。

 いい人生を歩むための説明書を持ちながら、なぜみすみすと逃す必要があるのだろう?

 そんな風に思うからこそ、種市がいちいち輝いて見えてしまうのだ。

 唯はネクタイを使ってマウンティングする女子高生だ。

 おれは一冊の本に踊らされている男子高生だ。

 どちらも、よくいる人間のひとり。

 だけど、種市はただただ種市であって。おれにとって交換不可能な存在なのだ。

「いや、おれがひとりで話をするよ。どうにか言いくるめるから」

 あくまで唯のためだ。

 彼女が仮に種市に報復を企んでいるとしたら、おれにも問題がある。

「あ、いやでも」

 ――とぽ、とぷん。

 なんだ?

 と思ったゼロゼロコンマ1秒後、目の前の種市がなぜだかずぶぬれになっていた。

 それだけ突然で、脳みそは何が起きたかをまるで理解してなかった。

 水は止むことなく、細い滝になって降り続けている。

 いや、水じゃない。甘い香りがする。嗅ぎなれた臭いだ。

 アクエリアス?

「柊羽、どうしているの?」

 見上げると、生気のない表情をした唯が柵から身を乗り出していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る