《9/好きな女の子のシャツを羽織って》

「これ、よかったら着てください」

 着替え終わった種市が差し出したのは、アクエリアスをたっぷり含んだビショビショのシャツだった。

 女ものだからボタンの合わせも逆だし、腰にシェイプがきいたシルエットなのは気にはなるが、着るだけならなんとかなりそうではある。

 おれよりも頭一つ以上大きい種市だ、いくら彼女が細身でも着れなくはないサイズ感。

 では、あるけれど。

 種市のシャツ?

 おれにとって、それを着ることほど甘ったるいことはなかった。

 彼女がおれのシャツを着ているというだけでも、腹の底がムズムズとして止まらないのだ。

 けれど、彼女は本当に実質的にシャツを着替えたかったからそうした、という顔をしている。もちろんおれのシャツが着たいはずもない。

 そりゃそうだ。彼女はおれに対して好意も何もない。せいぜいが、濡れたシャツを着せて、唯の彼氏のおれにも嫌がらせしてやろうというくらいだろう。

「断る権利はないですよね?」

 こちらが抵抗できないのがわかっている。

 今回の唯の行いを人質に取られる形で、おれは種市の言いなりになり、シャツを着ることにした。

 種市の匂いを知らないおれには、シャツの濡れた夏の匂いが、彼女の体のものに思えた。

 シャツは冷たく、やはり種市の体温は36℃よりうんと低いように思えた。

 そのことに激しく興奮していたが、表面的には致し方なくというスタンスを崩さずにいた。

 おれはネクタイの先をだらっと提げ、シャツの合わせがなるべくわからないよう、ボタンを隠した。(もちろん、種市は彼女自身のリボンタイをしている)

 昇降口に着き、靴を履き替えたあとも、シャツに肌が触れないよう、猫背でぎくしゃく歩く。妙な気を遣ってしまうのだ。本当は体中にまとわりついてほしいのに。

 いや、おれは種市を諦めたんだ。

 シャツ一枚で悦んでなどいられない。

 唯の笑顔を守るんだ。(まさか、卑下していたラブソングで連呼していた「守る」が本音になるなんて)

「変な歩き方ですね」

 相変わらずの猫背の種市の隣で、もっと背を丸めた状態のおれ。糸の切れたマリオネットが、引きずられているような恰好だろう。

「そうなんだよ、苦労するんだ。変な歩き方に生まれ堕ちて」

 本当におかしいのは、歩き方じゃなくておれの中で暴れる自意識なんだとは、はっきりとわかっているのだけれど。

 ヤケになってふざけてそのまま変な歩き方を続けているあいだ、種市はずっとおれのうしろをついてきた。

 3歩後ろを歩く女。この世界が「堕落」しようとする前にはきっと、そうあるべきと思われていた女性像。

 けれどその考えは、淘汰されるべき、へと変わっていったのだろう。

 いや、別に物理的にも観念的にも後ろをついてきてほしいなどと思わないから、消えていくならそれでいい。

 種市は猫背でおれを覗き込み、「くふくふ」と馬鹿にするように笑いながら3歩後ろを歩く女だ。

 そこには「堕落」など存在しない。3歩後ろ、を否定するわけでもない。

 観念を守るも逆らうも、共通するのは人の在りように何かしらの執着を抱いているということだ。

 だが種市はどちらでもない。ナチュラルに、世の中を踏みにじれるだけで。

 彼女が見据えているのは、もっと無意味で……いつはじけ飛ぶかわからない、泡沫のような世界なのかもしれない。

「ねぇ、荻野さん」

「え、は?」

 ひとつの問いかけにすら、緊張が走る。

 一体次は、何をふっかけられるのだろう?

「田原唯さんが嫌がることって、なんでしょう?」

 ド直球。

 唯への復讐方法をおれに尋ねるのは、ある意味正解ではある。

 なにせ、恋人同士というのは互いを理解し、誰よりも繋がり合っている存在(らしい)なのだから。

「……なんだろうね」

 答えようもない。

 いや、実を言うと唯が本当に嫌がることが何か、よくわからないのだ。

 種市への気持ちが、思考の邪魔をする。

 彼女の純然たる悪意を孕んだ復讐に対し、むしろ好意が走ってしまって止まらないのだ。

 種市は、復讐者が持つはずのドロドロがない。むしろあっけらかんとしている。

 悪事をはたらく人間だって、自分が悪いと思わないことは意外と難しいだろう。だから、理由を用意するのだ。

 けれど、種市は違う。

 軟弱な言い訳で正当化をしない。

「私はね、田原唯さんの感性みたいなものが、何一つ理解できないんですよ」

 だから嫌がることを教えろって?

 種市を撒き、家に帰るのも忍びない。

 まず考えるべきは、唯との出来事を口外させないためにはどうしたらいいか、だ。

 いくら口約束をしたところで、長谷川の二の舞になってしまう。

 口外しないと誓いながら、種市はそれを破ることも厭わないだろう。種市の気に障ることだけは避けた方がよさそうだ。

 おれは唯が一番好きなわけではなくても、一番大切なのはやっぱり変わらないから。

「種市」

「はい?」

「この後、何か予定ある? ちょっといいか?」

 どうにか話し合いの場を設けるしかない。

 唯を呼んで謝罪させるか?

 彼女も後悔しているはずだ。

 周囲からしたら下らなく映ってしまったネクタイのことだって、唯からしたら本当に嬉しかったのだ。

 たとえ無意識でマウンティングなるものをしていたのだとしても、意図して周囲を抑えつけようなんて思わないはずだ。

「予定ありますよ」

 唯への復讐を企てるという予定だろう。とにかく、まずは種市の気をしずめていかなくては。

「唯に悪気がなかったなんて、綺麗ごとは言わない。あいつがどう考えたってやりすぎた。ごめん」

「どうして荻野さんが謝るんですか?」

 また『どうして』か。

 どうしておれが謝る?

 長谷川の言う通りかもしれない。

 結局、おれはもめ事を嫌って、その場しのぎ的に争いを収めたいだけ。

 誰のためでもない、自分が損をしたくないというだけの自己満足。

『ごめん』

 唯。

 踊り場での笑顔が蘇る。ホエイで満たされた脳内に、アクエリアスが注がれる。

 おれの脳天めがけ、旋毛を穿つ雨だれを落とし続ける唯。

 ごめん。

 うっかり。

 ……おれは一生、唯のに付き合わなくてはいけないんだろうか?

 本当に困ったもんだね、一生守りたくなる笑顔まで浮かべちゃってさ。

「荻野さん。変な歩き方、忘れてますよ」

 いつの間にか、シャツの張り付きや種市の体温のことまで忘れ(ぶしつけな夏の日差しでおれの熱や汗と混ざり合ってしまった)、いつも通り歩いていたらしい。

 さっきやっていたのは、どんな歩き方だったかと手探り足探りでしっくりくるのを待つも、再現には至らない。

 そうか、おれ、さっきのことが意外とショックだったのか。

 唯のあんなところ見たくなかったのか。

 当たり前のことに気付く。

 どこまでも平凡なおれ。

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