《4/意味のあるものに群がる獣》
チャイムと同時に、担任の比嘉が入室する。
唯も種市をにらみながらも、大人しく席に戻った。
比嘉は焦って着席する唯を目で追い、太いげじげじとした眉をしかめた。
「田原ぁ」
「え、はい」
「なんだぁ、そのネクタイ」
比嘉はすぐさま唯がおれのネクタイをしているのに気付き、沖縄訛りの間延びした低い声を上げる。唯は照れ臭そうに「やっぱりダメですよね?」とネクタイを外そうとするが、「別にネクタイなんかどうだっていいから早く席に着けぇ」と比嘉はあっさりと話を流した。
「みなさん暑い中ご苦労さん。先生もな、登校日なんかいらんと思うけど一応なぁ。卒業まで、とりあえずいい子にしといてくれなぁ」
この学校の大半は付属の大学進学か、他大学にしても指定校推薦がほぼ確実になっている。
おれと唯も比嘉から、付属大への進学の約束をもらっていた。
この教室は、いわゆる世間一般の受験戦争とは縁遠かった。
ぬるま湯の中、おれたちがすべきことと言ったら、残された数か月の高校生活を、羽目を外しすぎない程度に楽しむことだけなのだ。
唯の友人とその周囲の席から笑いが起き、伝播して教室中が静かに湧いた。ネガティブさはない。いつもと同じ、自分が傷つけられないための、それこそぬるま湯のような気遣いだ。
「っけひ」
教室の一番後ろから漏れた種市の吐息に、再び緊張が走る。
唯が浮かれた様子がよほどお気に召したのだろうか。思い出し笑いが止まらないらしい。
やはり、種市の声だけは明らかに浮いていた。
本心からの笑いでもなく、事なかれ主義的な足並みをそろえたものでもない。
はっきりとした悪意を持ったその含み笑いは、たがの外れた狂った奇声に変わっていった。
「種市ぃ。ツボったのかぁ」
場にそぐわない比嘉の気の抜けた一言に、『余計なことを言うな!』という圧力がこの場に生まれたのがはっきりとわかる。
いや、比嘉先生、おれは貴方を評価する。
空気を読まないのでも、読めないのでもない。ただそう思ったから、そう言っただけなんでしょう?
そういう意味では、比嘉はこの教室の中では貴重なまともな人間なのかもしれない。
「は、はい、ツボりましたね。……」
ハイテンションから一転、急に頭を抱え、黙り込む種市。
「……なんだよぉ」
「いや、なんて言ったらいいんでしょう」
教室中が肩透かしを食らう。
「ここは――」
種市は、一瞬だけ声のトーンをひそめた。
「動物園、ですね」
種市は息を詰まらせながら、また笑い転げていた。
そうかもしれない。
種市からすれば、このクラスは小さな猿の山にしか思えていないのだろう。
マウントを取るとか取らないとか、トートロジーを実践する種市からすれば、低次元なことこの上ないだろう。
なにせ、クラス中が意味のあることに群がっているのだから。
がた、と椅子を引く音がする。
振り返ると、唯が立ち上がっていた。
「自分のネクタイ。ロッカーにあるんで取ってきます」
唯は震える声で、短く言い残して教室を出ていった。悔しさと羞恥からか、目には涙が溜まっているようだった。
教室を出ていったのは、唯なりの精いっぱいの怒りを殺す方法だったのだろう。彼女はこういうところで憤りを露わにすることはしない性格だ。
「たぶん、田原は戻ってこんだろうなぁ」
比嘉は呟き、何事もなかったかのように出席を取り始めた。
五〇音順に呼んでいき、躊躇いなく「田原ぁ」と唯の名字を呼んだ瞬間は、『こいつ大丈夫か』と全員が不安になっただろう。
「そうだ、荻野ぉ」
「は。なんでしょう」
おれは急に呼び掛けられ、ピッと背筋を正した。
「田原おらんけどなぁ、文化祭の実行委員、たぶんまたお前ら二人に任すからなぁ、大丈夫か確認しといてくれるかぁ」
「は、承知しました」
「3年生の文化祭なんて、あまり何もせんでいいから気楽になぁ」
2年生から持ち上がりのクラスで、昨年はおれと唯が実行委員をした。そのときは、仲のいいクラスメイトという程度で交際は始まっていなかった。
毎日放課後に顔を合わせ、一つの目標に向かっているうちに、自然と距離感か縮まる。
テンプレートな青春だと笑う人間もいるだろうが、合理的で必然性が強いからこそのテンプレートなのだ。
それでも、やっぱり考えてしまう。
唯から告白を受けていなければ――首を縦に振っていなければ、もしかして?
「けへっ」
授業が始まった後も、種市は時々思い出したように忍び笑い、吹き出し、息を漏らしていた。
地に伏し、床に零れたホエイまでも啜るおれたちを哂う。
んだよ、ホエイ、うめーんだよ。
いっそのこと、種市にそう叫んでやりたい気分だった。
「けひっ、けふぁ」
笑い声が上がるたび、種市を責めるような咳払い、ため息がクラスの方々からきこえた。
けれど、誰も種市に『お前がやったことは最低だ』とは言わない。
種市に関わるとややこしいだろうとはみんなわかっていたし、もしかしたら本当は誰も彼女を最低だとは思っていないのかもしれない。
唯のことなんかどうだっていいし、せいぜい面倒事はご免だというくらいだろう。
ひとりくらいいたっていいものだけどな、強い正義感、みたいなおかしな感情を持ち合わせている人間がいたって。
正義感。
そんないかれた感情は、特別な人間にしか備わっていないはずだ。そしてその特別さはおれに必要なものではない。
――種市さん。田原さんに謝りなよ。
いかれた口から、そんな笑える一言を聞いてみたいような気もしたけど。
もちろん謝る必要などない。
そんな中で、長谷川だけは種市をじっと見つめていた。
正義感ではないだろうが、せめてもと、恨みの視線で背中に穴をあけてやろうくらいは考えているらしい。
いや、唯の笑顔を守りたいな、とは思っているのだ。けれど、『唯を守りたい』と『唯の笑顔を守りたい』は、実は違うのかもしれない。
「……はぁ」
躊躇いはしたが、おれは立ち上がり、廊下に向かおうとした。
「おい、荻野ぉ。行くならなんか言うことあるだろぉ」
言うこと。
比嘉に言うことか。
「先生。ずっとそのままでいてください」
筋違いなのはわかっているけど、彼に対して伝えるべきことといえばそれくらいだった。
「そういうことじゃないけど、もういいから行けぇ」
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