《2/安吾先生へ》

「んー」

 必死になにかいい返しがないか考える。

 てか、暑い。

 いざ我にかえると、とにかく暑い。

 唯が憎くすらなる。『堕落論』の世界におれを還してくれ。温度のない空想の世界に。

 なんだって、夏休みに登校日なんてものがあるんだろう。

 今年は例年にないくらい暑い日が続いている。家に籠っている日々で、冷房病でだるくなった体に日差しは心地いい。

 と、思ったのは家を出て2分半だけで(おれの集中の限界が2分半なのだろう)、あとはただこの無意味な制度を恨むだけだった。

「唯は今日も可愛いなぁ、と」

 絞り出す。だいぶ苦しい。けれど、ここからぼやかす自信はある。気まぐれで蒔いた種を育ててみせよう。

「バカじゃん、朝っぱらから。それに今日のうち、あんまかわいくなくない?」

 本人なりに、化粧の出来とか、顔のむくみとか、前髪の割れ方の黄金比とか、いろんな要素があるんだろう。

 でも。

「かわいくない日なんかないよ。ニキビができてたって歯に青のりがついてたってかわいい。O脚なとこも、2リットルのアクエリアスを持ち歩いているとこも、サ行が苦手なとこも、麺を啜れないところも。むしろ啜るというより運んでるよね」

「なんで悪いとこばっかいうの?」

「いいところはありすぎて言い切れないから」

 嫌になる。

 おれはどこまでも気が小さくて姑息だ。

 結局、唯に嫌われることさえ、怖いのだろう。

 文化祭の実行委員すら断れなかったおれが、堕落などできるはずもない。

「……ほら、早くいくよ?」

 唯は口に咥えていたチュッパチャップスを出し、てらてらと光るその先で信号を指した。

 瞬間、青信号が点滅し始めた。

「走れっ!」

 唯は不満そうな顔から一転、無邪気に笑い(八重歯がのぞいた瞬間、それもさっき言えばよかったと後悔した)、横断歩道を小走りに渡りだす。おれも続き、先を駆ける唯を追いかけたが、既に遅かった。

 渡り切れず、横断歩道の真ん中の島にたどり着いたころに、赤になってしまった。

 すぐさま、信号待ちしていた車が走り出す。

 おれの前後で、猛スピードで駆け抜ける。

 人間をミンチにする速度。鼻先と後頭部をかすめていくような感覚すらある。

 先に駆け抜け、向こう岸に着いた唯が大声で呼びかけてきた。

「柊羽、先行くからねー?」

「(さみしいこと言うなよ)」

 おれは口パクでそう言ったフリをした。

 車に遮られ、引き離されるカップル。ドラマのワンシーン。きっと、大切な言葉が聞き取れず、その二人はすれ違ったり傷つけあったり惑ったりするのだろう。

 結局は大声を出すのが面倒だっただけだったのだが、唯が遊び心だと勝手に解釈してくれたらうれしい。

「嘘だってば! 待ってるから早くこーい!」

 こちらの意思が伝わったのか伝わらなかったのかは定かではないが、弾ける笑顔が返ってきた。

 あぁなんだろうね、『「堕落」がどうとか、んなこと本当に重要なのか?』って気にさせてくれる笑顔だ。

 体温36℃スマイル。

「しゅ、 だ、 きもっ すっ」

 唯の言葉が、車でぶつぶつと切られる。おれの意識までもが接続不良に陥る。

 渡り切った先が「堕落」。行き交う車が常識。

「堕落」を求めた平凡な男(たとえば、おれ)は、常識の波に呑まれ、溺れ死ぬ。

「堕落」ができる人間は、この車の波をすんでのところでかわし、かいくぐれる人間だということだ。

 種市はまさしくそういう人間に見える。それはさぞ危なっかしく、清々しいことだろう。

「柊羽ぅー!」

「ん?」

 常々、『柊羽という名前に「羽」はいらないだろう』と思っていた。

 けれど、唯が『柊羽』のうの部分にアクセントを置くたび、『あぁ、必要な「羽」だったのか』と気づかせてくれるのだ。

「ばぁぁぁか!」

 あまりに無邪気なものだから、自分が馬鹿であることが誇らしくさえ感じられた。

 そうだよ、こんな馬鹿なことを考えていてなんになる。

 車の流れはおれに関係なく目的地に向かっているだけだし、そもそも誰がおれに「堕落」しろ、常識を捨てろと強要しているのだろう?

 単なるないものねだりの憧れだ。

 ふと、鞄に入った『堕落論』を手放したい衝動に駆られる。帰りにブックオフにでも寄ろうか。

 せめて、どこかの誰かがこれを読み、堕落することに憧れてみてくれたらいい。その下らなさに気付くところまでがワンパッケージ。

 夏休みの登校日で、きっと気が滅入っているのだ。日差しへの恨みの現実逃避に、世界を憂うことで逃避しようとしているだけで。

 信号が青になり、唯の元へと駆ける。唯が早足で、跳ねように歩き出した。彼女が足を蹴りだすたび、胸元のレジメンタルのネクタイが揺れた。

 男子生徒用のもの……というか、おれのものだ。

 周囲の女子生徒たちが赤いリボンタイをつけている中、強烈に違和感を放っていた。

 今、3年生の女子の間で彼氏のネクタイをするのが流行しているらしい。このご時世だからこそ注目されたローテクな遊びだ。唯も例に漏れず、ネクタイをおれにせがんだ。

 登校日というルーズさもあり、いい機会だと妙な言い訳まで用意して。

 抵抗感を覚えながらも唯に流されてしまうのは、結局彼女を怒らせて話がこじれるのを恐れたからだ。嫌われるかもとか、ノリが悪いと思われるかもとか。

 どうしようもなく小さい人間。自己嫌悪で眠れなくなるほどなのに、素直に周囲に合わせることもできない。

 本当は、こんな浮かれたことはごめんだ。唯が浮かれれば浮かれるほど、セットでおれもおめでたい人間になってしまう。(唯だってきっと、他人が同じことをしていたら冷ややかな眼差しを向けるだろう)

 おめでたいやつら。浮かれたカップルを見て、そう笑うのだ。

「帰り、ブックオフいくわ。本、売りに行く」

 おれは鞄越しに、そっと『堕落論』を触った。こんな本がなければ、いちいち悩むこともないのだろう。

「本ー? 柊羽、本なんか読むの?」

 唯や、他のクラスメイトに『堕落論』の話などもちろんしたことはない。

 本なんか読むの?

 一生そう思われていたい。

「マンガだよ」

「だよね」

 そもそも、おれが考えている「堕落」云々だって、大概おめでたい。

 実際に日常の転換点にさらされたとき、こんな観念的なことを考えられるだろうか?

 ただただ、目の前の日常を懸命に生きようとするのが筋じゃないか?

 来たるべき日のためにあれこれ考えているとしても、所詮、暇つぶしに過ぎないのだ。

 そんなおめでたさに溺れたいときもある。

 おれが『堕落論』にしがみつく理由があるとしたら、それはひとつ。

 種市だ。

 しゃかしゃか。

 種市が長い腕を振って、おれの頭の上をぐるぐると歩き回る。小さく唸って、何がおかしいのか、たまに吹き出したりする。

『朝っぱらから、ずいぶんと純度の高いホエイを摂取していますね』

 他のクラスメイトはともかく、種市だけにはつまらない浮かれた人間だとは思われたくなかった。

 あー、ますます学校に行きたくなくなってきた。

 安吾先生、こんなことで悩まなくちゃいけない世界になったのは、貴方が警鐘を鳴らした「堕落」の結果なんですよ。

 ……それとも。

 そもそも「堕落」がなされなかったのから、こんなことになってしまったのでしょうか?

 戦後どころか、ずっとずっと人間は、ただただ下らないことで悩み続けているおめでたいやつらなのかもしれない。

「柊羽さぁ、ネクタイちゃんとクリーニングだしてる? なんか臭う気がするー」

 唯は顔をしかめ、ネクタイを嗅ぎ始めた。

「え?」

「柊羽のにおいだ」

 唯はパッと明るい表情に戻る。

 文句を言いながら笑う唯がかわいすぎて、他のことは何でもいいやって気になる。

 ……でも、ひとつ不思議なことがあって。

 唯のことが一番大切だ、ということは確かなのに、唯が一番好きだとはとても思えないんですよ、安吾先生。

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