《1/どうせなら、おめでたい日々にしか考えられないことを》(上)
告白してもう2年も経つのだ。いつまでもこだわり続けるわけにもいかない。
当然、種市を諦める努力はしている。
なにせおれは今、世間がありがたがる青春のただ中にいる。
ひとりの女にこだわり続け、高校生活の3年間を丸々棒に振るのは阻止したい。
けれど、種市は至るところで登場する。というか、ヨーグルトそのもの(つまりホエイが)というのが正しいのかもしれない。
想像以上に、生活にヨーグルトが溢れている。コンビニやスーパーはもちろん、テレビのCM、どこにだっている。
ヨーグルトを見たらもう終わりだ。
ホエ……。
ホエイ、と結びつきそうになったとき、必死に頭から掻き消そうとしている。
どうしても浮かびそうになったら、関係ないことをゆっくりと立ち上げて考える。
グアバフルーツ。名前しか知らない、色も形も知らない果実。勝手に発色のいいビタミンカラーの黄色をイメージ。
その断面を想像する。粘質な果肉の内側……カエルの卵にも似た透明の液体の中に黒い種が無数にある。舌の裏にも似ている。
舌の裏はどうしてこんなにも気持ち悪いのだろう。
……とまぁ、こんな風に。
調子がいいと、ホエイのことを一時的に鎮静することができる。
けれど今日は調子が悪い。
何気ない会話の中にヨーグルトという単語が入ってきただけで、過去の出来事から逃れられなくなっている。
そもそも、どうしておれはこんなにも種市に拘ってしまうのか。
つい色々とこねくり回してしまうけれど、これに関していえば、答えはあまりにも単純。
種市は、おれが憧れる「堕落」をした存在だからだ。
……「堕落」。
もちろん、ただだらだらと過ごす一般的な堕落とは違う。
おれにとっての堕落は、坂口安吾の『堕落論』における意味である。
戦後当時の天皇観、妄信された女性性、そのほか今のおれにはわからないような、心を支えてきたものを捨てること。
捨て切り、自分の常識を捨てる。それが「堕落」だと。
当然、それは難しいことだと安吾はいう。
彼のいう「堕落」とは、新たな世界に「生み堕とされる」ことと言ってもいい。それが難しいのも当然のことだ。
安吾の時代はそうだったが、高校生のおれにとって今、切実に重要なことは戦後の日本のありようなどではない。
話を大げさにすると全てがぼやけてしまう。
もっと単純な、おれの世界の常識。
勉強をすること、学校に通うこと。
人にやさしくすること。
誰かを好きになること。
すべてを捨て去れたらどんなに楽だろう。
憧れるばかりで、おれは思い切りよく行動に踏み切れる人間ではない。
結局この高校生活も、普通に勉強をし(してしまい、ともいえる)、文化祭の実行委員もなりゆきで引き受けてしまったときは自己嫌悪で死にそうだった。(しかも結局、役割を全うしてしまった気の小ささも含めてだ)
おれにとって『堕落論』は、どん詰まりの日常を切り開けるかもしれないという希望を持たせてくれる存在だった。
そして種市は、よしとされていることを重荷に感じずに、自分が生きたいように生きているように見えた。
そもそも……。
「
うおっ。
突然肩を揺すられ、ハッと我にかえる。
「柊羽柊羽柊羽柊羽」
唯がおれの名前を連呼する。口にチュッパチャップスを咥えているせいか、もごもごとしている。
なんで唯が?
現実に引き戻され、一瞬ここがどこかさえわからなくなる。教室や電車でのうたた寝から目覚めた感覚に近い。
通学路。高校の前の横断歩道。
信号待ち中。唯がヨーグルトダイエットの話をし始めたところだった。
「私さ、『あと2キロ痩せたらかわいい説』あるじゃん?」
「え?」
頭が切り替わらない。
恐ろしい。
ヨーグルトという単語が唯の口から飛び出した瞬間、おれの意識は2年前の告白の瞬間まで飛んでいたのだ。
「ボーっとしてない? 話聞いてた?」
「あぁ、おはよう、唯」
見当違いなのは分かってる。
でも、目覚めの挨拶は大切。
おれは唯に最高の笑顔を向ける。が、それがうまくいっているかはわからない。
「おはよう? なに、その『今地球に降り立ちました』みたいな顔」
「2キロ痩せなくたってかわいいって説もあるよ。だからヨーグルトの話はもうおしまい」
「は? ちゃんと聞いてなかったんでしょ!」
唯はため息をつき、おれの背中を叩く。小柄だけど、なかなかのパンチ力。
そうだよな。『なんで』も何も、一緒に登校しているんだからいるのは当たり前だ。
種市に散々こだわっておきながら、今一緒にいるのは唯。
種市を少しでも忘れさせてくれる。
事情がわかっていれば、おれが種市を忘れるために唯と付き合っている、と思われても不思議ではない。
でも、おれが種市に想いを寄せていることを知る人間はいない。種市も口外していないようで、これに関しては自信がある。
想い人を忘れるために別の誰かと付き合う、それを人でなしだと思うやつもいるだろう。
でも、実際ありふれたことでもある。
脈がないのははっきりわかった。ハズレのたからくじを握りしめ続けているほどおれも酔狂ではない。
最初はさすがにきつかったが、今は少しずつ、種市のことを考える時間を減らせている気がするのだが……。
「柊羽ってさ、すぐどっか意識とんでっちゃうよね。何か考えごとしてたんでしょ?」
「んー」
「すぐに全然ピンとこないって顔するよね、柊羽は」
「んなことないって」
「何考えてたのか、言ってごらんよ」
種市のことだ、とは口が裂けても言えない。
訓練して頻度は減らしているものの、ふとしたきっかけで発症してしまう。
種市が急に頭の中に現れ、あのときと同じように歩き回る。もう病気みたいなもんだ。
『脳漿がホエイになってしまったようですね』
うるさい、出ていけ。
フラれた女子に当たり散らすのはカッコ悪いから、せめて想像の中だけでも強気で。
ごめん、唯。
切り替えよう。
……ごめん、2年前のおれ。
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