《プロローグ/36℃のおれが、体温のない種市とホエイについて考えた2分半》

    “人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。

          だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。”

                          ――坂口安吾 『堕落論』



「それはあれですね。ホエイ、ですね」

 種市采の言葉は、おれの心を孤島に取り残した。

 ホエイ?

 ていうかホエイってなんだ?

 種市と会話をするのは初めてだが、早くも一筋縄でいかないことを察した。

 クラスの女子たちが彼女をどうにか輪に入れようとしていたのものの、入学後2か月が限界だったのも頷ける。

 そんな変わり者の種市だからこそ、おれは放課後のグラウンドに呼び出したわけだが。

「ほえい?」

 おれは馬鹿みたいだと思いながらも、ひらがなで訊きかえした。

 種市は、肉付きの薄い骨ばった手で頭を掻いた。長い腕を持て余し、なんとも窮屈そうにしている。

「ほら、ヨーグルトに浮かぶ変な水です。わかります?」

 彼女は膝を屈め、窺うようにおれの顔を覗き込んだ。迷子になった子どもに『お母さんと一緒じゃないの?』と尋ねるときと同じ。

 反射的にムッとするが、おそらく悪意はないのだ。(悪意がないから、傷つくのだけど)

 種市はおれよりも頭一つ背が高い。185センチはあるだろう。

 ただ、おれの顔が彼女より低い位置にあり、まっすぐ立ったままでは喋りづらいという、ごく単純な理由。

 無為に傷つけられながらも、腹の底はむずむずとしてたまらなかった。

「変な水……」

 ヨーグルトに浮かぶ水?

 薄黄色く濁っていた気がする。

「そう。その変な水みたいなんです、きみが言っていることは」

 彼女は手を打ち、深く頷いた。

 おれが言ったことがホエイ?

 え、おれ、なに話した?

 もちろん覚えている。

 覚えてないわけがない。

 だって、彼女に告白をしたのはついさっきなのだから。


『実は、いや、実はといってもおれ自身、何が「虚」で何が「実」かはわからないけれど……とにかく種市が気になってて。それを、伝えたいなと』


 これは告白として成立しているのか。

 呼び出し、顔を突き合わせたらふさわしい言葉が出るだろうと思いきや、むしろまとまらなかったというのが正直なところ。

 まぁ、それはさておき。

 どう考えてもホエイの話などしていない。

 なぜおれの告白がヨーグルトの上の濁った水なのだろう。

 不透明で何が言いたいのかわからない、ということか?

 彼女が意図するところはまるでわからない。

 ――それが、いいんだけど。

 奥底の見えない言動ひとつひとつが、さらに種市への好意を加速させる。

 こちらが理解できないことを重ねるたび、種市は更に輝き、届かない存在になっていくのだ。

 種市はひょろ長い手足をしゃかしゃか動かし、おれの周りを落ち着きなく歩きまわる。

 グラウンドを踏みしめるリズミカルな音と、種市の唸りが混ざり合う。

 彼女が落ち着きなく早足で小さなサークルを描いて歩く姿は、学校中のそこかしこで目撃されていた。

 初号機、か。

 種市はそのロボットめいた動きと鋭い目つきが『エヴァ』の『初号機』に似ていることから、陰でそう呼ばれていた。

 だからだろうか、種市は体温さえもないような、おれとは別のシステムで動いている存在にさえ思えていた。

 36℃なんていうで生きているおれとはまるで違うのだろう。

「要は私にとっては、愛や恋はホエイみたいなものなんです」

 彼女は腕をかきむしる。なにかのアレルギーを発症したみたいに。

 傍から見れば、話はまったく進んでないように思えるだろう。少なくともおれが告白したことが伝わっているのがわかったという程度。

 だが、彼女の中では徐々に考えがまとまっているようだった。牛の歩みほどでも、彼女は進んでいる。

 その牛から作られたヨーグルトから滲んだホエイに、おれはまた悩まされるのだろうが。

「あの水ごと摂取すると、体にいいそうですよ。でも、別に摂らなくてもいい。たかがホエイですから。主役はあくまでヨーグルトであって。くふっ」

 吹き出した。

 なぜこのタイミングで笑う。

「ホエイと同じように、恋愛は人生においてすごく重要だし経験すると豊かになるんだろうなぁ、と思ったんです……けど……」

 彼女は元々目つきが悪いが、考え事をしていると更にきつくなる。

「えー。ごめんなさい。忘れてください」

 いや、無理。

「あのですね。生きていることって、トートロジーだと思うんです」

 彼女は迷った挙句、言葉を絞り出した。またも取り残される。

「……」

 ホエイは知らなくても恥ずかしくないけど、その「トートロジー」は学問的な薫りがして、質問するのが躊躇われた。どうにか知ったかぶりを決め込もうと浅く頷くが、彼女は意にも解せず説明を始めてしまう。

 待ってくれ、知らないんじゃない。

 いや、知らないんだけど、知らないと思わないでくれ。

「トートロジーというのは、無意味を繰り返すことで意味を見出すことです。私はね、無意味な日々を積み重ねることでしか、本当の意味は分からないと思っているので」

「……本当の意味?」

 生きている本当の意味?

 素晴らしい、そんな崇高でたまらなく無意味なことを考えているところから、既に彼女のトートロジー始まっているのだ。

「恋愛というのはそれなりに意味があるのかなぁと思うので、私にとっては雑音というか、雑味になってしまうのです」

 ――で、結局付き合ってはくれないの?

 答えを聞きたくてたまらない。

 生殺しにするくらいなら、いっそのことばっさりと切り捨ててほしい。

 そう思っているおれは、種市と一緒にいる資格すらないのだ。

「と、いうわけです」

「……わかった」

 わかってない。全然わかってはいないんだけどさ。

 彼女が言わんとするところをわかったふりをする、どうしようもない虚栄心が勝ってしまっていた。

 ――いや、返事をはっきり貰おうよ。

 おれの素直な気持ちをつかさどる部分からのシグナルがうるさくてたまらない。

 おれはそれを無視した。

「頭痛くなってきたので帰ります。返事はまたいつか」

「いつかって」

 つまり惨敗。

 さすがのおれでもわかる。

 取り残される。何か声をかけなくちゃ。

「あのさ、種市!」

「はい?」

「……おれら同級生なのに、なんで丁寧語?」

 心底どうでもいい。なんでそんな質問しか浮かばないんだ、おれ。

「だって、使い分けが面倒じゃないですか」

 なるほど。

 先程とはうって変わって、気持ちいいさっぱりとした答え。

 やっぱり、お前はなんかいい。2分半、楽しい想いをさせてくれてありがとう。

 最後に何を聞くべきだったのか、正解はまるでわからなかったが、とりあえず違う質問にすればよかったな。

 種市の平熱いくつ?

 とか。

 それだけでも知れたらまだよかったなぁ、とアブない発想ばかりが浮かぶ。

 まぁそんなことを考えているうちは、絶対に彼女には近づけないのも、馬鹿なおれでもわかる。

 おれはお呼びじゃないんだな、お前の人生には。

 きっと、もしかしたら、たぶんきっと。


 それ以降、おれはヨーグルトを見るたび、乳酸菌ガセリ菌抵抗力云々という表示など目が滑るばかりで、ただ『……ホエイ』とばかり思うようになった。

 彼女から言わせれば、ヨーグルトが人生そのもの、ホエイが恋愛。

 おれや恋愛にうつつを抜かす世間の人々が、ヨーグルトを丁寧にろ過し、抽出したホエイを貪る異様な集団に思えているのだろう。

 告白した高一の夏から二年が経つが、そのあいだも、ずっと種市に日常を支配されている。

 おれの頭は、こんなにも彼女が頭に植え付けたホエイに支配されているのに(頭の中を暴走した初号機のように走り回り、『ホエイホエイホエイ』と呟き続けているのだ)、彼女にとってはホエイという喩などその場の思いつきでしかなく、あの場から去った時点で消えていったに違いない。


『そういうのはなんていうんですかね、行きずりで愛情もなく肌を重ねた女が妊娠してしまった。そういうことですかね』


 頭の中で種市が勝手にそんなことを言う。

 種市、言葉にもコンドームは必要だよ。

 お前のまいた種が、頭の中で発芽し続けている。きっと、軽い気持ちで蒔いたんだろうけどさ。

 取り残された島で、静かに果実がみのり、雨風にさらされてそっと腐り落ちるのだろう。

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