第5話 かなしい雨 一

 あれから僕は毎晩のようにご主人に呼ばれて一緒に眠るようになりました。お兄さんはというと、空いたスペースで静かに横たわるか、僕の寝ていたタワーのベッドで丸くなっています。なんだか申し訳ない気持ちもあったけど、彼はやっぱりスマートで、まったく気にしていない様子です。

 ご主人の体調は少しずつ良くなり、もう夜中に泣くことはなくなりました。それどころか、今ではハナウタを歌いながら帰宅することもあります。時間がどんなに遅くなっても、以前のようにどんよりとした感じはありません。

 何かいいことがあったのかな?

 お兄さんはご主人さえ良ければそれでいいと言わんばかりに澄ましているけれど、僕は気になります。一体何がご主人を元気づけたのだろう? 僕らも頑張ったけれど、たぶん、それだけじゃない気がします。

 ご主人は絶えず右手に平べったいものを持って歩くようになりました。そして、時折それが震えて音を立てると素早く覗き込み、口元を緩ませながら必死に指を動かしているのです。

 明らかに、何かあるぞ、と僕の勘が働きました。

 僕はご主人の飼い猫です。ご主人のことなら何でも知る権利があるはずです。ぼんやりしているお兄さんを尻目に、僕はご主人の傍にぴたりと張りついていることにしました。

 僕の家内の尾行はついに実を結びました。

 それはめずらしく訪れた休日――ご主人はいつもより念入りに顔の儀式を施し、あの黒い硬そうな服ではなく丈の長いふわふわした柔らかな服を頭から被り、まとめた髪になにやらきらきら光る飾りまでつけて、それはもう慌ただしい朝でした。

「カタセさん、どうしたんですか急にっ」

 あの平べったいものを台に置いて、ご主人は上ずったような声を出します。するとその平べったいものから、低く硬い声が流れ出てきました。けれど、なんと言っているのかわかりません。

「もうすぐお会いできるじゃないですか。それこそ、一時間後くらいに」

 ご主人が答えると、声はまたも何事か言いました。たちまちご主人は耳まで真っ赤になって、髪型をいじりながら俯いてしまいました。

「そんな……」

 しおらしく、うじうじしています。こんなご主人を見るのは初めてです。

「……支度を終えたら、すぐに向かいますから」

 音声はそこで途切れ、平べったいものの表面から光が消えました。ご主人はしばらく手を止めぼうっとしていましたが、はっと我に返ったように儀式を再開します。

 僕は思わずタワーの方を見上げました。お兄さんは相変わらず澄ました顔で窓の外でも見ているだろうけど――という僕の予想は、外れていました。

 お兄さんは金色の眼をいつになく大きく見開いて、浮かれ模様のご主人の背中をじっと凝視していたのです。僕はなんだか怖くなって、背筋にほんのり冷たい感じを覚えました。

「ああ、もうそろそろ出なくっちゃ……ねえ、これでいいかしら? かわいい? 綺麗に見える?」

 ご主人は足元の僕に向かってくるりと一回転して見せました。ふわり、淡い色の緩やかな服が花びらのように広がって、むせ返るほどの甘ったるいにおいが広がります。このにおいは前から変わらず苦手だけれど、それでも、ご主人はいつにもまして輝いて見えました。

 僕の返事がどう聞こえたのか、ご主人はうふふと笑ってもう一回転します。

「これでばっちりね。ああ、緊張するな、初めてのデートなんだよ。しかも、あのカタセさんと! もう、ほんとに、どうしよう、わたし、一生分の幸せを使い果たしているかもしれない……」

 あのカタセさんがどのカタセさんか知らないけれど、一生分の幸せなんて、今日一日で使い切れるものなのかな?

 ご主人はハナウタを響かせながら赤い包みに平べったいものやつんとする香りの瓶などをぽいぽい放り込み、何度も念入りに中身を確認してからおもむろに腕にひっかけました。

「じゃあ、出かけてくるね。お昼のご飯はここに置いておくから、良い子で留守番、よろしくね」

 それだけ言い置いて、意気揚々と出かけてしまいました。

「デートって、なに?」

 お兄さんと並んでご飯を食べている時、僕は唐突に訊ねてみました。

「何か楽しいことなの? だってあんなに嬉しそうにしてたもんね。僕たち猫にもできること? それとも――」

 は、と息が止まりそうになりました。

 お兄さんは今まで目にしたこともないような険しい表情で、じっとご飯の皿を睨みつけています。

 見たことないほど浮かれたご主人と、不機嫌なお兄さん。今日は一体、どうしてしまったんだろう。

 僕の胸に、かつてないほど不穏な予感が湧き起こっていました。ご主人に拾われたあの日から、どんな胸騒ぎだって、不安だって、全部消し去ってしまえたのに。

 大丈夫。ちょっとお昼寝して、適当に遊んで、帰宅したご主人の顔を見ればきっと何もかもなくなるはずだ。そうだ、僕を不安にさせたんだから、ちょっと強めにご飯の催促したっていいよね。

 お兄さんは今日は一度も絨毯に寝転がらず、窓辺に座ってじっと外を見つめるか、玄関の前で丸くなっているばかりでした。真っ黒な額に深々と皺を刻んだまま。

 そうして夜、ご主人が帰ってきました。

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