第4話 おふとんと涙


 それからご主人は、「お仕事」との行き来で神経をすり減らす日々が続いていました。元々疲れて帰ってはいたけれど、ここまでひどくはなかったのに。

「大丈夫かな……」

 僕の漏らす独り言に、お兄さんも切なげにうなずきます。

 そんなある日のことです。

 ものすごく久しぶりですが、やっとご主人にも休暇が訪れました。たったの一日だけだけど、ご主人はほくほく顔です。僕らの世話をする以外はほとんどソファで横になって、蓑虫みたいにブランケットにくるまっています。

「ああ幸せ」

 ずっとそう言っています。

 お昼過ぎにもなると、足元に置いた鞄からおもむろに平べったいものを取り出して、耳に当てました。

「あ、ヨーコ? 久しぶり。あの件、もう解決したから、大丈夫だよ。主任カンカンだったけど……」

 ご主人とヨーコは、それからずっとお喋りしていました。「お仕事」の愚痴を互いに言い合っているみたいです。

「……え?」

 ふいに、ご主人の口が止まりました。

 僕はソファの下でご主人と同じようにだらけていたので、その表情がよく見えました。戸惑ったように眼を凝然とさせています。

「いや、……そうなんだ、おめでとう、ヨーコ。うん、うん……へえ、いやあ、めでたいねえ」

 その口ぶりから、ヨーコの身に何かいいことがあったのかもしれませんが、それにしては、ご主人の表情が固い気がしました。

「え、いや、気づかなかったよ。まさか二人が、そんな……わたしだけじゃなくて、たぶん誰も気づいてないと思う」

 いつの間にか、僕の隣にお兄さんもいました。すっと背筋を正して、口元を引き結んで、静かにご主人を見上げています。

「で、どっちから言ったの? へえ、あっちから。うん……うん……あはは、ロマンチックだね。そんな感じなんだ。で、ヨーコは? ……あはは、照れるよねそりゃ。そうなるそうなる。わたしだって、そう返したかも」

 なんだか妙な胸騒ぎがしました。話の相手はいつものヨーコで、ご主人ととっても仲が良いはずなのに。ご主人の声も明るく朗らかなのに。なぜか、唇が微かに震えているんです。目を細めて、長い睫が陰っていて。こんな顔を見るのは初めてでした。

「え? ……まっさかあ。あの人のことなんて別になんとも思ってなかったよ。考えすぎだって。たまたま、別の案件で一緒に仕事したことあるだけだし、そのよしみでちょっと喋るくらいの仲だってだけ。大丈夫大丈夫、そもそも全然、タイプじゃないし! え、わたしのタイプ? うーんとねえ……」

 タイプってなに?

 思わずお兄さんの方を振り向きましたが、彼は微動だにしません。

「そうだね……いつでも、傍にいて……」

 ご主人の身体が、柔らかなソファに沈み込みます。

「静かに、守ってくれる……そういう、ひと、がいいな」

 いつでも傍にいて、静かに守る。

 タイプが何かよくわからないけど、それは僕たち猫のこと?

「あはは。そんな理想的な人、いるわけないから。ただ言ってみてるだけだよ。それよりヨーコ、式はいつなの? どこでやるの? うんうん……え、呼んでくれるの? 嬉しい。パーティドレス、用意しとかなきゃ。ほら、去年、先輩ので使ったっきりなんだよ。まさか次がヨーコの時になるとはねえ」

 それからも長々と忙しくお喋りして、ご主人はようやく口を閉じました。平べったいものを耳から離して、握った手をだらんと床へ垂らします。

 ご主人は反対側の腕で目元を覆って、じっと動きませんでした。

 がたんがたん。遠く窓の外から何かの揺れる音がします。ぽかぽかと気持ちの良さそうな外の光。だけどこの部屋は憂鬱な寒々しさに満ちていて、しんと静かで、まるでここだけ世界から切り離されたようにゆっくりと沈んでいくみたいでした。

 ふと、ご主人の喉から、ひきつるような音が聞こえてきました。唇が戦慄いています。つ、と水滴が腕の下の目から耳の方へ流れていきました。

 あ、ご主人がまた泣いている。

 僕はいても立ってもいられず、ソファに飛び乗ると、ご主人の涙を毛並みで受け止めようとしました。

 だけど、この間みたいにうまくいきません。涙が全然止まらないんです。それほどまでに、ご主人はどこか痛んでいるのだと思うと、胸が張り裂けそうでした。

 お兄さんもやってきて、ご主人の頬や腕を優しく舐めたり、黒い毛並みをすり寄せたりしていました。ご主人をどうにか元気づけようと、僕らは必死でした。

 窓の外に薄闇が降りてきます。部屋の中も暗くなり始めると、ご主人はようやく起き上がりました。目はまっ赤に泣きはらしていて、見ているだけで胸が締め付けられそうになります。

「……ごめんね」

 放たれた言葉は重く、小さく、震えていました。

「最近、ずっとこんなことばかりで。いやだね、こんな飼い主」

 そんなことないよ。

 だってどこか苦しいから涙が出るんでしょう。

 僕たち猫も、涙を流して目の異常を洗い流しているんだ。だからご主人も、痛くなくなるまで泣かなくちゃだめなんだ。

 僕の訴える声に、ご主人は力なく微笑んで、ソファからゆらりと立ち上がりました。

「ちょっと早いけど、ごはんにしようね」

 ご主人がゆっくりと食料庫へ向かう間も、僕らは片時も離れませんでした。だって、なんだかそのまま、ご主人が部屋の暗闇に消えてしまいそうで。ふらりとどこかへ行ってしまう気がして、心配だったんです。

 食事の間だけはついついごはんに集中しちゃうけど、それでも時折、ご主人の様子を盗み見ていました。僕らの目の前にしゃがみこんで、こぼれた餌を拾ってくれる。そのたびに、ちゃんといるな、と安堵します。

 ご主人が水浴びしている間も、僕らは扉の外で待機していました。叩きつけるような水の音はやっぱり怖いし、飛沫がざあっと扉をかすめるたびに遠くのキャットタワーへ逃げたくなるけれど、ご主人から目を離せなかったから頑張って耐えました。

 お兄さんも同じ気持ちのようでした。丸い金色の瞳をじっと扉に向けたまま、彫像のように座っています。

 濡れた髪のまま出てきたご主人は、僕らの姿を見ると再び目元を赤く染めました。

「待っててくれたの?」

 待ってたよ。

 早く髪を乾かしてきて。

 それから、ゆっくり眠ってよ。

 ご主人がベッドに横になるとき、僕はいつものようにタワーの小部屋に潜り込みました。お兄さんは、もうご主人の枕元でだらりと身体を伸ばして、待機しています。

 あとは、お兄さんに任せよう。

 新参者の僕は、ここで上からご主人を見守れるから。

 ところが、今夜は様子が違いました。

「ムスタ」

 月明かりだけがぼんやりと照らす薄闇の中で、ベッドの上のご主人が両手を広げていました。

「おいで」

 枕元に横たわるお兄さん。

 こちらを真っ直ぐ見上げているご主人。

 この二人には深く結ばれた強い絆がありました。見えないけれど僕はいつも感じていて、決して入ることができないから、僕はこの小部屋を寝床にしたのです。

 でも――でも。

「ムスタ、お願い」

 ご主人の声が、薄闇の中で靄のように僕の耳をやんわりと包み込みます。それはとんでもない吸引力を持っていて、僕の中のちっぽけな意地も嫉妬も、全部呑み込んでしまいました。

 僕は小部屋を飛び出しました。

 一目散に駆けていって、ご主人の懐に飛び込みます。たちまち、大好きな甘い匂いに全身を包まれました。

「ありがとう。――あったかいねムスタ」

 僕もあったかいよ。

「人間はね……いつも猫に癒されているの。家でも、外でも……その姿を見るだけで、心がほっこりするんだよ」

 そんなの、僕もだよ。

 僕は、ご主人に癒されてるんだよ。

 僕の後頭部にほんの少し、湿り気を感じます。

 ご主人はまた泣いていました。温かな布団の中で僕をぎゅっと抱きしめながら、静かに、声を押し殺して、涙を流していました。

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