第3話 無力な猫

 次の日、太陽が天高く昇るまで、ご主人は目を覚ましませんでした。お兄さんも隣で身体を丸めたまま寝息を立てています。僕は、お腹がきゅうきゅうと鳴いてたまらず、ソファから降りて食料庫の方へ行きました。

 部屋の一角に、ちょっと狭くて、いつもごはんのいい匂いのする場所があります。ここには小さな戸がいくつもあって、全部が鼻腔をくすぐる匂いを漂わせているんです。

 だけど戸はご主人しか開けることができません。高くて届かなかったり、届いても厳重に閉じられていてびくともしなかったり。窓が開いていたら狩りにでかけられるんだけど、ご主人は滅多に開けません。

 食料庫の前でしばらくうろうろしていると、ソファの方でやっとご主人の動き出す物音が聞こえてきました。

「ムスタ、ごめんね」

 ご主人がやってきて、食料庫の一つを開けてくれました。

「ちょっとまってね、すぐに用意するから」

 部屋の絨毯の上に、白い丸皿が二つ並べられます。ご主人の手にした大きな袋から、ざざざ、とごはんが盛られました。僕はさっそく飛びついて、がつがつといただきます。ちょっとこぼしてしまったけど、お腹が空いていたのだからしかたがない。

 お兄さんはついさっきまで眠っていたとは思えないくらいスマートな表情で、控えめにごはんを舐めていました。もしかしたら実はずっと前から起きていて、ご主人の寝顔を見守っていたのかもしれません。

「もう、こんなにこぼして」

 ご主人の白くて細い指先が、僕の皿からこぼれたごはんを摘まみます。

「しかたないなあ、ムスタは」

 ご主人に言われるとちょっとくすぐったいです。褒められているわけでもないのに。

 僕たちが食べている横で、ご主人も食事をとります。椅子に座りテーブルに皿を出して、四角くて柔らかいものを両手で掴んでもそもそと食べています。美味しそうな匂いがするのに、僕たち猫には毒だからと、食べさせてくれません。

 ご主人は口を動かしながらも、力ない眼を宙に投げていました。あれだけ寝たのに、まだ疲れが取れていないみたいです。

 僕はタワーの足元でおもちゃのボールを転がしました。本当はご主人に遊んでもらいたいけど、疲れているなら、休んでもらいたいから。

 それでもご主人は僕の動きに気がつくと、「あ、やってるね」と近寄ってきて、ボールを掴んで、えいっ、と部屋の隅に放り投げました。僕は飛ぶように駆けていって、それを咥えて戻ります。

「えらいよムスタ、そら、もう一回!」

 ボールが何度も部屋の中を飛び交い、そのたびに僕が走って、ご主人が笑います。

「元気だねえ」

 明るく朗らかな声です。それを聞いて僕は安堵しました。もう疲れは取れたのかな。

 そのとき、ふいにテーブルの方で、ピロンと涼やかな音が鳴りました。ご主人は慌てて立ち上がり、昨夜も使っていたあの平べったいものを手に取りした。険しい顔でしばらく立ち尽くしてから、はああ、と深いため息を吐き出します。

「また、行かなきゃ……」

 とぼとぼと丸椅子に座って、力なく顔の儀式を始めました。それからゆったりした服を脱いで、黒色の、固く動きづらそうな服に着替えます。

 僕とお兄さんが不安げに見守る中、ご主人はあっという間に「お仕事」の準備を終えてしまいました。

「ごめんね、ちょっと急ぎの用事があるから」

 そう言って僕の頭を撫でるご主人の顔は、ひどく沈んでいました。

 部屋に取り残された僕とお兄さんは、互いに顔を見合わせました。

「何かあったのかな」

 お兄さんは何も答えず、玄関にたたずんでいます。

 それからご主人が帰ってきたのは窓の外がすっかり暗くなってからでした。案の定、ご主人の顔は死人のようにくたびれていました。

「もう、いや」

 吐き出すように口にして、ソファに倒れ込むご主人。その目尻に浮かんだ水滴を見て、僕はぎょっとしました。

 僕たち猫にとって、涙は目の異常の印。またご主人が体調を悪くしたのかと、僕は焦りました。

 でもお兄さんは冷静で、ソファに上がってご主人のそばにぴたりと身体を寄せると、涙の浮かんだ目尻にそっと額を当てました。まるで水滴を拭おうとしているかのように。

 それでもご主人の涙は消えません。それどころか、後から後から、たくさん溢れてきて、止まりませんでした。

「どうしたらいい?」

 僕が問うと、お兄さんはふいとその場を空けました。とんとんと、尻尾で叩いて示します。ここに来いと。

 僕はお兄さんの真似をして、ご主人の涙を僕の毛並みで受け止めました。水は僕にとって恐怖のはずなのに、おぞましいもののはずなのに、ご主人の目からこぼれる涙だけはまったく嫌悪しませんでした。頬につたう雫を舐めると、物悲しい味がしました。

「ノワー、ル……」

 僕だよ。ムスタだよ。

 よく似ているからか、長い間呼び慣れているからなのか、ご主人はたびたび名を呼び間違えます。そのたびに、僕はちょっと悲しくなります。悲しいというより、悔しいの方が近いかもしれません。

 ご主人はようやく涙を拭いて、僕を抱き上げました。ソファに座って膝に乗せてくれます。

「ごめんね、心配かけたね」

 柔らかくて、甘くて、心地いいご主人の手のひら。

「ちょっとお仕事がうまくいかなくって。……でも、だいじょうぶ。あなたのごはんを買うために、頑張って稼いでくるからね……」

 つらいなら、そんなことしなくていいよ。

 僕なら、窓を開けてくれればいつでもごはんを取りに行ける。ご主人が望むなら二人の分も取ってきてあげるよ。だから、しんどいなら、悲しいなら、どこにも行かなくていいんだよ。

 僕の声はご主人には届きません。ただ鳴いているようにしか、聞こえないみたいです。歯痒くて、もどかしくて。僕は無力です。

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